2016/06/28

辻 栄一 写真展『弘前散歩』 第2弾/第3弾

Hpdmimg_0001 辻氏は、昨年2月、写真集『弘前散歩』を出版した。これについては、私が以前に書いたブログを参照してほしい。横浜在住の辻氏が遠く千キロも離れた青森県弘前市で写真集を出版したのにはいろいろなわけあがる。まず辻氏は旅のエキスパートだ。鉄道写真から始まった旅は、地方の民俗、祭り、人々などにも興味がわき、ますますのめり込んでいった。全国を行脚した辻氏にとって、弘前は選ばれた土地となった。関西出身の辻氏にとっては、横浜は第二の故郷だ。弘前は、第三の故郷といえるのではないか。
 辻氏は自らを「横浜からの旅人」という肩書で、立場を明確にして撮影地の人々と接している。地方の方々は胸襟を開いて応対してくれるのだろう。Hp20166_edited1先の出版で、地元弘前市の出版社の協力を得られたのは、辻氏の旅人としての心意気が地元の方々の気持ちを動かしたのではないか。この出版がきっかけになり、昨年の10月から11月にかけて写真展『弘前散歩』が開催された。それだけではなく、今夏には2か所で写真展が開催される。地元の「広報ひろさき」と日本カメラ社「写真の教室」に紹介された記事を掲載する(いずれもポップアップ可)。ご高覧いただけたら幸いだ。
 なお、辻氏からの速報によると、29日は地元新聞社の取材と、市長の来訪があったという。

●『弘前万華鏡 オンリー・イエスタディー』

会期: 2016年6月29日(水)~7月3日(日) 10:00~18:00〔7月1日(金)は ~19:30/初日は13:00~/最終日は ~15:00〕
会場::弘前市立百万石町展示館 第1展示室

Hpdmimg_0002Hpdcim0321_edited1






                                                  

                                         ●
こども絵本の森 開館3周年記念

『街歩きの魅力 再発見』…弘前人が愛する散歩道

会期:2016年7月4日(月)~7月10日(日) 10:00~18:00〔初日は13:00~/最終日は ~17:00〕
会場:ヒロロ3階「こども絵本の森」特設会場

Hp2016_edited1(左)写真の教室の記事

(下)東奥日報の記事Hpdcim0325

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2015/09/29

『朝夕の争い』 5日 16時まで

第9回 プローバー’01 写真展

 

会期:2015年9月29日(火)~10月5日(月) 初日は13:00~ 最終日は~16:00
会場:かなっくホール ギャラリーB
(アクセスはDM宛名面のポップアップ参照)

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Hpp9291209_edited1Hpp9291203 今回の写真展はプローバー’01創立15周年記念展である。会場のあいさつ文を以下に掲載する (写真上は会場風景、同下左は作品一覧などを収録したプログラム《A4判 4P》。同下右はプローバー’01のメンバーHppa011262_edited1)Hpp9291213_edited1

「朝夕の争い」
 写真の世界では、朝夕がシャッターチャンスだといわれています。朝夕の被写体は、どちらも低い光で照明され、しばしばドラマティックな表情に恵まれます。はたして、写真に最適な時間帯はどちらでしょうか。
 私たちは、3年前「春秋の争い」という写真展を開催しました。これは、四季の変化が顕著な美しい日本で、春秋の優劣を競おうというものです。古来、万葉集や源氏物語でも取り上げられてきたテーマです。この「春秋」を「朝夕」に置き換えてみました。朝夕の優劣は、写真にたずさわる私たちにとっては大いに関心事です。私たちプローバー’01は、朝と夕の味方になっていろいろな風物を撮影してみました。
 作品をとおして、多くの写真家と朝夕の優劣を話し合えたら幸いです。
 2015年9月29日  プローバー’01一同/コーチ:豊田芳州Hpimg_0002

 

 

カテゴリーについて
 文章や書籍には章や節、段落がつきものだ。たくさんの情報を伝えるとき、それをいくつかに分けて、論述しないと、読者は混乱して内容を把握できない。章や節にはタイトルがあり、段落には見出しがつく。写真集や写真展にも、この区分けは必要だ。私は、この区分けや分類をカテゴリーと言っている。このたびの『朝夕の争い』展には、このカテゴリーを最大限に利用した。
Hpimg 名取洋之助 著「写真の読み方」(岩波新書)には、いかに写真をわかりやすく読ませるかということが書かれている。おもに報道写真やドキュメンタリーについて解説されているが、写真展や写真集にも触れている。要は、画面の大小と並べ方により、伝えたいことを明確にして読者に見せようということだ。私たちプローバー’01展では、プリントサイズは一定(A3)だが、並べ方では大いに工夫した。
 プローバー’01は、全作品を朝夕二つに分け、さらに、それぞれを三つに分類して色分けして区別した
(図表左上 ポップアップ可 。カテゴリーの色は作品のタイトル札にも反映されている。常にカテゴリーを念頭において作品を見ていただこうと意図したからだ。

 

 

 

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私は、朝と夕に1点ずつ出展した。 「朝」はカタクリの写真『目覚め』だ。カタクリは朝、閉じていた花弁を開きはじめ、日が高くなるほどに全開し、午後は花弁がそり返るほど開き、オシベやメシベを大きく露出する。夕方になると閉じはじめ、夜は完全に閉じる。この現象を1週間以上繰り返す。作品は8時33分に撮影した。
 「夕」に出展した写真は、ドイツ・ランズベルグで撮影した『待降節の楽しみ』だ。11月下旬になると、ドイツのどこの街でもクリスマス・マルクト(市)が建ち、クリスマス(降誕祭)に備えてアドヴェント(待降節)を過ごす。私は5日間ほど滞在したが、毎夕4時ごろになると、人々が三々五々マルクトに集まってくるのを観察した。Hppc135673大人たちはグリュウーワインを飲み、子どもたちはスナックを食べながら、クリスマスを待ち望む。作品は、12月13日、17時2分に撮影。

 

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2015/05/11

昔懐かしい写真展『ふるさとの記憶』 5/12~5/17

第13回 ヌービック・フォト・フレンズ5写真展

会 場:神奈川県民ホール 第2展示室 アクセスはマップ参照(ポップアップ可)
日 時:2015年5月12日(火)~17日(日)10:00~18:00 初日は13:00~ 最終日は~15:00

Hp_dm_2 「ふるさと」といえば、文部省唱歌が有名だ。この歌には、ふるさとが凝縮されている。いろいろな「ふるさと」がある。まず「生まれ育った土地」、次に「精神的なよりどころとしてのふるさと」があり、「かつて住んだり訪れたことのある土地」、また「我が家」をさす場合もある。ヌービック・フォト・フレンズ5は、これらを意識して撮影し展示した。
 ヌービックはテーマにこだわり、毎回、悪戦苦闘してこなしている。今回の『ふるさとの記憶』についても同じだった。しかし当初は、これは取り組みやすいテーマだと思ったようだ。Hp_dmimg_0004ヌービックのメンバー一人ひとりにふるさとがあり、観客(鑑賞者)それぞれにもにもふるさとがあるからだ。情報伝達には、送り手と受け手に共通の素地や土壌があるほど伝わりやすい。ふるさとについていえば、自分のふるさとは他人のふるさとになるだろうと考えられる。あきらかに良いテーマだと思ったようだ。良いテーマとは、労せずして撮影し、展示作品を選べるという一面がある。ところが、そうはいかなかった。
Hpp5141706 ヌービック・フォト・フレンズ5のまとめ役は、前ページで紹介した写真集『弘前散歩』の著者・辻 栄一氏である。作品が集まるほどに、辻さん(以下、さん付けとする)には送り手と受け手のギャップが見えてきたようだ。辻さんの作品の評価眼はいつも厳しいのだ。それを埋めるために、メンバーの苦戦が始まった。差し替えのために撮り直しをしたり、ありネガの探索を重ねた。その結果、見事な作品展になったと思う。Hpp5141686テーマに対する解釈の多面性と正確さはプロフェッショナルといえよう。特にグループ展としては最高のできばえだ。テーマをこなす苦戦はおおいにけっこうだ。この葛藤が作品展をグレードアップすると思う。テーマとはそういうものだ。テーマのない写真展は観客を意識しているとは思えない。辻さんがまとめた会場のあいさつ文を以下に掲載する。 (写真上右 「ふるさとの情景」コーナー、同上左 「昭和の面影」コーナー)

ふるさとの記憶
「ふるさとは遠くにありて思ふもの そして悲しくうたふもの.....」
 明治の文豪 室生犀星が24歳の時、ふるさとに対して愛憎をこめて作った詩である。 誰にでもふるさとはある。生まれ育ったふるさとはいくつになっても心に残っている。楽しいことばかりではなく、辛く苦しいこともあった。遠い昔の記憶であるが、幼いころに遊んだ野山やあのころの風景に出合えばどこか懐かしく、そして安らぎを覚える。それがふるさとなのである。
 今回の写真展は3部で構成されている。
第1部「ふるさとの情景」ではふるさとの原風景を感じたり、子供の頃の様々な体験を思い出すことができます。
第2部「昭和の面影」では人々の暮らし方が大きく変貌する高度成長期以前の、『always三丁目の夕日』のような昭和の風景にタイムスリップしていただけます。
第3部「横浜のふるさと」で幕末の開港によって文明の発祥地となった旧居留地界隈のエキゾチックな街角を探訪しています。
 それぞれのふるさとを愉しんでいただき、しばしの郷愁に浸っていただければ幸いである。 2015年5月12日 ヌービック・フォト・フレンズ5 一同

作品のタイトルは以下のとおり(ポップアップ可)Hpimg_0006_3(写真下右 「横浜のふるさと」コーナー)Hpimg_0006_2
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2015/01/25

フランスの寛容…多民族に開かれた国家

 本稿を執筆するきっかけは、パリのメトロ(地下鉄)路線図を見ているときに始まった。家内がメトロ7号線の終点駅に「La courneuve-8Mai 1945」という駅名を見つけたのだ。フランスの終戦記念日の日付(1945年5月8日)が駅名になっているのである。Hpp6010304_edited1_3好奇心に駆られて行ってみることにした。そのときのレポートを2015年の賀状に書いた。多民族国家・フランスの懐の深さと寛容の精神に感動したからである。今年に入って、パリでテロ事件が発生、イスラム過激派と西欧文明の対立が問題になった。フランス共和国とはどのような国家なのか。 (写真上 La courneuve-8Mai 1945駅地上出口付近。以下の写真はすべて同駅付近で撮影したもの)

ガリアの時代
 現在、フランスの主要民族はラテン人である。しかし、紀元前、フランスがガリアと呼ばれていた古代ローマ時代にはケルト人が住んでいた。ガリアはローマ人にとって魅力的な土地だったようだ。ローマのたびたびの侵略に屈し、紀元前1世紀、ローマの属州になったHpp6010290Hpp6010299_4ローマのユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)は敗者のガリアに対して寛大な対応をした。この経過は、ユリウス・カエサルの「ガリア戦記」に書かれている。その結果、多くのローマ人(ラテン人)はガリアへ移住した。ガリアはじょじょにラテン人の土地になっていった。現在、ケルト人はブルターニュ地方に少し残っているという。 (写真上左 メトロLa courneuve-8Mai 1945駅構内。同右 地上周辺マップ)

ローマの寛容
 古代ローマのカエサルがガリア地方を平定したとき様子が塩野七生 著の「ローマ人の物語」(新潮文庫)に書かれている。それを参考にして、私が書いた『ニュルンベルグの城壁 ドイツNo.109』の一部を引用する。「カエサルのガリア攻めの戦法は、いかに相手の戦意をくじくかにあったようだ。当時、ローマの土木・建築技術は世界最高水準だった。それを駆使して攻城兵器を造りガリア(ほぼ現フランス)の城郭都市を攻めるのである。Hpp6010325_edited1高いやぐら、頑丈な防壁(囲い)、飛び道具や城門を破壊するための仕掛けなど、ローマの技術力の粋を結集して敵を攻めた。それを目の当たりにした敵は防衛を断念して降伏し、門を開かざるをえなくなる。そしてむだな血を流さず、両者にとってメリットが生ずる。敵が降伏するもう一つの理由に、カエサルの「寛容」がある。カエサルは降伏した敵国を虐待するのではなく、ローマ共和国に組み入れて属国とし、それ相当の優遇措置を講ずるのである。徴税はするものの、ほかの外敵からの保護を保証し、食料事情も配慮する。 また、属国の長の子弟をローマへ留学させてローマのシステムを学ばせる。その子弟は、帰国して属国をローマのシステムで管理するようになる。だから、カエサルの人格を知ると降伏したほうが得なのである」。私は、現在のフランスにローマの寛容の精神を感じる。

フランスの原形
 カエサルの平定後、ガリアはラテン人(ローマ人)の支配する土地となった。そして5世紀、ゲルマン民族の一派フランク族によってフランク王国に統一された。Hpp6010342_29世紀、フランク王国は三分割され、その一つの西フランク王国が現フランスの前身となった。フランスの国名はフランク族に由来する。このころにはヴァイキングとして知られるノルマン人も一つの勢力をノルマンディー地方に確立していたという。この歴史からもフランスが多民族国家になっていった経緯が納得できる。

多民族国家
 ラテン人とは、ラテン語系の言語を話す人々で、イタリア、フランス、スペイン、ポルトガル、ルーマニアなどの国家を形成している。フランスも主要民族はラテン人だが、国境線が地上にあるうえに、たびかさなる戦争で周囲から他民族が侵入・移住してきた。フランスには、ゲルマン人や中東、北アフリカ系の諸民族などが住んでいる。ウィキペディア(Wikipedia)によると、フランス市民の23%は、少なくとも親か祖父母の一人に移民がいるという。また、20世紀には多くの移民を受け入れたという。まさに、フランスは多民族国家ということになるだろう。Hpp6010301_2パリは特に顕著で、町を歩いているとその現状を納得できる。しかし私が、メトロ7号線の終点「La courneuve-8Mai 1945駅」で観察した情景は、さらにそれを越えていた。駅から地上へ出たとたん、そこにはフランスのマルシェというよりは中東のバザールが展開していた。露店を出す人々も、買いもの客も中東やアフリカ系の人々だ。ラテン系のフランス人は私の目に入らない。その光景を見て、フランスの度量の大きさを感じ、その背景を知りたいと思った。

異質なものとの共存
 寛容だったのはカエサルだけではなかった。「ローマ人の物語」には次のように書かれている。ローマ建国の祖ロムルスが執った政策について、ギリシャのプルタルコスが著作「列伝」(私は世界史でプルタークの「英雄伝」と習った)で評したことが興味深い。「敗者でさえも自分たちに同化させるこのやり方くらい、ローマの強大化に寄与したことはない」。Hpp6010318_edited1ロムルスが建国時に執った戦術と戦後処理につては、「ローマ人の物語」第1巻≪ローマは一日にして成らず≫をご一読いただきたい。「ローマ人の物語」には、全巻をとおしてところどころにローマ人気質が描かれている。ローマ人(ラテン人)には、根幹に寛容の精神が貫かれているように読める。ガリア(フランス)がローマの属国になったことで寛容の精神が培われ、現在の多民族国家につながっていると思う。Hpp6010310_edited1フランスの長い歴史の中で寛容とは言いがたい場面が多々あったが、人々の根底には脈々と寛容が息づいているのではないだろうか。
 現在、世界ではあいかわらず紛争が絶えない。イラク・シリアのイスラム国の脅威、イスラエルとパレスチナ、ウクライナやアフリカ諸国の内紛など、宗教的あるいは民族的な対立などさまざまだ。これらの対立を解決するのにもっとも必要なことは寛容(tolerance)の精神であろう。意地や沽券を捨て、自身とは異質なものを受け入れ共存することはそれほど難しくないと考える。国境が海上にあり、侵略を受けたことがない“多神教”国家の日本人だから言えるのだろうか。

表現の自由
 寛容には油断がつきものだ。油断と裏切りは裏腹である。カエサルが暗殺されたのは、寛容にともなう油断であり、暗殺者の立場に立てば裏切りだ。カエサルは無防備で元老院へ出かけ、寛容に対応した政敵に暗殺された。それは寛容に対する裏切りだった。Hpp6010342カエサルは暗殺計画を察知していたはずだ。あえて、それに備えなかったのが、カエサルのカエサルたる所以だろうか。
 さて、パリのテロ事件の背景には、当然、フランスの寛容があった。テロリストは、それを裏切ったのである。一方、私は、表現の自由や言論の自由、報道の自由にも疑問を感じる。シャルリ・エブド社のイスラム教に関するパロディーについては不詳だが、不快を感じる人(集団)がいたら、そういう表現は控えるべきではないのか。同類のパロディーをキリスト教に当てはめたらどうなるだろうか。シャルリ・エブド社はキリスト教についてのパロディーも扱っているのだろうか? 宗教観に乏しい私の疑問だ。
 なお、フランスの終戦記念日(1945年5月8日)がメトロの駅名になった経緯は未調査だ。ただ、La courneuve-8Mai 1945駅の地上出口付近に、ナチス・ドイツに対するレジスタンス運動の記念碑(写真上右)が立っていた。

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2015/01/01

新春のごあいさつ

初めて除夜の鐘をつく

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 私は、地元の真言宗歓成院でカウントダウンをして新年を迎えた。初めて除夜の鐘をついた。

 昨年は、家内のリクエストでパリへ出かけた。そこで、年賀状でパリの体験をレポートした。以下に、年賀状とその文を掲載する。


あけましておめでとうございます

 昨年6月、パリに11日間滞在しました。メトロを足にして博物館、美術館、教会、公園などを巡りました。メトロ7号線の終着駅にLa courneuve-8Mai 1945という駅があります。Hp2015_2フランスの終戦記念日が駅名になっているのです。興味をそそられ終点まで乗ってみました。地上へ出ると、ナチス・ドイツへのレジスタンス運動の記念碑が目に留まりました。しかしそれよりも驚かされたのは、思いがけない大規模なバザールが展開していたのです。屋台を開いている人々や、買い物をする人々は、ほとんど中東やアフリカ出身のように見えます。パリでこのような情景を目にするとは想像もしませんでした。多民族を受け入れるフランスの懐の深さと寛容の精神を目の当たりにしました。記念碑を撮影して、駅を後にしました。あいかわらず、足の向くまま二人そろってマイペースの旅を続けております。皆さまの新年のご活躍をお祈り申しあげます。  2015年元旦 豊田芳州/恵子

 

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2014/12/04

サンリス・プチ・トリップ

フランスでローマ時代の遺跡を見学

 今夏、パリに滞在したとき、1日だけ近郊のサンリスへ(Senlis)出かけた。パリの北約40キロに位置するサンリスには、ローマ時代の城壁(市壁)が残っていると聞き、興味をそそられた。塩野七生氏の著作「ローマ人の物語」を読んで以来、ローマ文明は現在の西欧社会の基礎になっていると知った。Hpp6070928_2町造り、建築、土木、政治、法制、経済、税制、軍事などの技術や制度には、今もローマの精神が息づいている。私のライフワークである「ドイツからの風」を撮影するにあたっても、ローマ文明を知ることが欠かせないと考えている。 (写真上 ローマ時代の城壁内部。写真下左 街路に露出した城壁の断面、幅4メートルはありそうだ)

Hpp6070804_2 紀元前8世紀ごろローマ人が進出してくる以前は、現在のフランス(ガリア地方)にはケルト人が住んでいた。サンリスは先住民族ケルト人が造った都市だという。フランスを侵略したローマ人はサンリスも自分たちの町にして砦を築いた。サンリスのパンフレットによると、ローマ人は紀元前3世紀ごろには、厚さ4メートル、物見やぐらが28塔もある城壁で町を囲ったという。この城壁の大部分が現在も残っている。この城壁を見学することがサンリス訪問の目的だ。Hpimg_0001

 さて、現ドイツ連邦共和国の主要民族であるゲルマン民族が、北方のスカンディナヴィア半島南部より南下しはじめたのが紀元前10世紀ごろだった。すでにガリア(現フランス)に住んでいたローマ人と接触することになる。「ドイツ史」(木村靖二 著 山川出版社)によると、「紀元前2世紀ごろに、ゲルマン人はローマ人と直接対峙することになった」とある。サンリスの城壁はケルト人だけでなくゲルマン人に対する備えにもなったのであろう。Hpimg_0002「ローマ人の物語」(塩野七生 著)では、ゲルマン人はローマ人にとって終始(AC476年、西ローマ帝国滅亡まで)蛮族あつかいである。しかし、ゲルマン人はローマ人と敵対する一方、進んだローマの文化やシステムを学びまねたと「ドイツの歴史」(マンフレット・マイ著 小杉尅次 訳 ミネルヴァ書房刊)には書かれている。私は、Hpp6070801ドイツの生い立ちを知るために、ゲルマン人が接触したローマ文明を知りたいという願望に駆られた。少しでも当時のローマ文明に触れたいと願っている。 (写真下右 日本語版ガイド。写真下左 観光案内所)

 さて、サンリスへの往復は簡単ではなかった。パリ北駅でチケットがうまく買えないのだ。出札口でやっと買えたチケットを見ると、出発まで待ち時間が1時間以上ある。北駅で2時間も無為に過ごしてしまうことになった。Hpp6070979しかもサンリスへはシャンティイーでバスに乗り換えねばならない。その乗り継ぎの待ち時間がさらに1時間ある。サンリスへ着くのは午後1時になってしまう。パリに帰着する時間を午後5時に設定したので、帰路のバスの出発時刻が午後3時になる。現地には約2時間しか滞在できないことになる。楽しみにしていたサンリス見学はプチ・トリップになってしまった。以前はサンリスへも鉄道の便があったのだが、廃線になってしまったようだ。現在、旧サンリス駅はバスの発着所になっている。そこまでシャンティイーからバスが運行されている。振り返ってみると、鉄道とバスの連絡チケットを慣れないパリの自販機で買うのがたいへんだったのだ。 (写真左 サンリスの中心にあるパルヴィノートルダム聖堂)

 サンリスに着いてから、まず観光案内所(OFFICE DE TOURISME)へ向かった。案内所は、パルヴィノートルダム聖堂の真ん前にあった。ドイツでいえばマルクト広場だ。そこで、小冊子のガイドブックをもらった。日本語版もある。さっそくそれを頼りに町を歩きはじめた。Hpp6071028しかし、なかなか城壁へ近づけない。やっと、入口らしいところを見つけて城壁の中へ入った。そこには、今までの視界とは異なる風景が展開していた。何が違うのか、ひと言ではうまく言えないが、時代というか、風格というか、精神というか、私には紀元前3世紀のローマ時代にかなり近い風景だと感じられた。バスの時間が迫っているので、数カット撮影してその場を後にしたが、なんとも無念であった。 (写真右 旧サンリス駅)

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2014/07/10

昔の巴里を撮りたい

セピア調の写真を楽しむHpp6020715b

 初めてコンパクトカメラだけを持って海外へ出かけた。海外取材は、経費がかかるうえに撮り直しはできない(一般に、どんな写真も同じシーンを撮り直すことはできない)ので、今までは信頼性が高いといわれる一眼レフをもっていった。しかし、コンパクトカメラの画質と信頼性が高まり、安心して取材に使えるようになった。持参したのは、オリンパス スタイラス1と同XZ-2、同XZ-1の3台だ。どれも信頼しているので、1台にトラブルがあっても、ほかの2台を使えるので心配ない。オールインワンのコンパクトカメラは、機材の軽量化ができ、カメラワークもシンプルになり、取材がずいぶん楽になった。 (写真右上 エッフェル塔Hpp6050442b_2

 
 私は、スタイラス1を中心に使った。35ミリ判換算300ミリまでの望遠撮影ができるうえに、マクロ撮影にも強いので、海外でもオールラウンドで使える(スタイラス1についてはいずれ詳述したい)。スタイラス1のモードダイヤルにART(アート)という表示がある。プログラムAEモード(P)や絞り優先AEモード(A)、シャッター優先AEモード(S)と同列にある撮影モードだ。ARTモードをひと言で説明すれば、諧調やカラーを変えて11種類の特殊な効果を作ることができる。Hpp6050457bそのなかの一つに「ジェントルセピア」という効果がある。「ジェントル」(gentle)とは「温和な」「優しい」「穏やかな」といった意味である。「セピア」(sepia)とは、色の種類で、「暗褐色」「黒褐色」をさす。「ジェントルセピア」で、写真を「穏やかな暗褐色」に仕上げることができる。 (写真上左 三輪車、写真上右 街頭のスタンド

 変色した古いモノクロ写真はしばしばセピア色になる。セピア色のプリントには、レトロとかアンティークな雰囲気があり、けっこう好まれている。Hpp6050451bこのユーザー志向に合わせてスタイラス1に採用されているのが「ジェントルセピア」である。 (写真左 パリジェンヌ

 私は、古いパリを撮りたかった。そこで、エッフェル塔とシャンゼリゼ通りで「ジェントルセピア」モードを選んで撮影してみた。パリの町並みはここ100年はほとんど変わっていない。セピアに仕上げれば往年のパリの雰囲気が出るのではないかと考えた。パリは「巴里」に写るのではないか?

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2014/05/02

山手の春を楽しむ 横浜No.75

『どんたく』のにぎわい

 恒例のサンモール・インターナショナル・スクールのフードフェアを目ざして山手へ出かけた。フードフェアは、毎年4月29日に開催され、横浜の原点とも言えるイベントである。Hpp4290301_3 1859年の開港後、山手に住みはじめた外国人たちは、異国に滞在する寂しさをまぎらわすために野外イベントを開いた。それを「どんたく」(Zondag 日曜日)と呼び、生活の中の楽しみにしたという。私は、フードフェアは開港当時のどんたくの流れを引くイベントと考えている。そこで毎年、この時期に山手を訪れることにしている。横浜山手の春を寸描しよう。 写真上 山手十番館(レストラン)と外人墓地

〔下左〕フードフェアのゲート 〔下右〕お国自慢のファーストフードで会場はハッピームード。韓国、メキシコ、日本、インド、中国、チリ、ハワイ、アメリカ、フィリピン、アイルランド、レバノン、オーストラリア、ニュージーランドなどが出店していた。毎年、バーベキューの煙が漂うHpp4290199_3 Hpp4290272_3

〔下〕ゲートわきの特設ステージでは、中高生のジャズバンドが演奏Hpp4290228 Hpp4290212

〔下左〕子どもたち手作りのゲームには、アイディアとユーモアがいっぱい 〔下右〕フェイスペインティングは山手らしいHpp4290257 Hpp4290245

〔下左〕外人墓地も華やか 〔下右〕チューリップ・アート・プロムナードという催しが、山手の西洋館(234番館、エリスマン邸、111番館、イギリス館)で開催されていた(5月3日まで)。写真は山手234番館の作品Hpp4290129 Hpp4290197

〔下〕山手99番(外人墓地正門前)が公園になった。「山手の移り変わり」(右)と「山手のブラフ積み」(左 当時の石積みの技法)を紹介したパネルが設置されているHpp4290166 Hpp4290139_2

〔左〕山手99番公園のモニュメントHp99p4290175

参照: 『横浜が見える時間』 横浜No.66

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2014/04/09

Deutsche Geist 『ドイツの栄光』展 予告 ドイツNo.139

第1回 豊田芳州ネット・ギャラリー写真展

 インターネットが情報伝達の中枢的存在になってきた。各種のコマーシャルでは「詳細は○○で検索」などと、肝心の情報はインターネットで伝える場合が多い。行政や公共の情報もインターネットに任せているのがほとんどだ。Hp インターネットが嫌いだなどと言っていたら、世間の趨勢から遅れてしまうだろう。インターネットを敬遠するなら、それこそ自身の感覚を研ぎ澄まし(高感度のアンテナを立てて)、何倍もエネルギーを使わなければ生活情報は得られないだろう。もちろん、その選択肢はあると思うし、世の中の流れとは別の道を歩むということもありえる…。

 というわけで、私は自身のブログで写真展を開催することにした。ネットギャラリー『豊田芳州のTheme』の開設だ。ネットギャラリーのメリットはいくつかある。
①鑑賞者は会場へ足を運ぶ労力を省略できる ②いつでも鑑賞できる ③自身のサイトをもてば、だれでも写真展を開催できる ④会場費、パネル製作代などの開催費を節約できる ⑤アクセス解析で、鑑賞者のキャラクターと傾向をつかめる ⑥アクセスの多いサイトでは、多くの観客を動員できる。一方、デメリットもある。
①大画面の迫力がない ②組写真としてのレイアウト効果(モンタージュ効果)を生かしにくい。『豊田芳州のTheme』では、写真を並べて鑑賞できない ③作者と直接コミュニケーションができない
 デメリットの解決策として、①については、パソコンを大画面TVにつないである程度改善はできる。これには専用接続コードが必要だ。②については、ブログ上で特別なページ展開を工夫しなければならないので、現在の私に解決策はない。③については、コメントのやり取りで可能だろう。また前述のとおり、アクセス解析から鑑賞者のキャラクターと傾向をある程度つかめる。ネットギャラリーでは、作者と鑑賞者の間に、通常のギャラリーにはない接点が生まれるだろう。

 ネットギャラリーでの開催とはいえ、ダイレクトメール(案内はがき)を作り、期日とギャラリー(ブログのURL)を告知することにした(写真上)
〔期 日〕:2014年4月2日(水)~4月8日(火)
〔ネットギャラリー〕:「豊田芳州のTheme」 http://silent-forest.cocolog-nifty.com

 さて、なぜドイツなのか。私は、若いときからクラシック音楽が好きだった。無意識に聴いているうちにドイツ系の作曲家と曲が好きになっていた。ドイツを意識すると、ますますドイツ音楽に引き込まれた。ドイツ音楽を表徴するとしたら、重厚、荘重、躍動的、大上段と言ってよいのではないか。私は、“正統派”と思っている。好きな曲を生み出す風土や人々に興味をもつのは当然だろう。

 一方、写真を専門的に学ぼうとするとドイツのカメラに関心が出てくる。現在は日本がカメラ王国だが、その前はドイツがカメラ王国だった。日本は以前、ドイツのライカやコンタックスをまねた時期があった。Hpp5305116_2 Hpp6157053 ドイツのマイスターたちが作った精巧なメカニズムがカメラの基礎になった。写真関係者にとってドイツは特別な国である。それは私にとっても同じだ。ほかに町並みや人々は馬が合うし、パン、ソーセージ、ビール、コーヒー、ジャガイモなど大好物だ。現在、ライフワークとして「ドイツからの風」に取り組んでいる。第1回は『栄光』編としてまとめた。ドイツ各地で共感し、私なりに讃えたいと感じた風物である。アクセスいただけたら幸いだ。 (写真上左 うまいドイツのビール。同上右 おいしいドイツの朝食)

『豊田芳州のTheme』に掲載された写真と文章は、著作権法で保護されています。無断使用はご遠慮ください。All pictures and writings on this blog are copyrighted.

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2014/01/01

あけましておめでとうございます               八ケ岳山麓No.158/横浜No.72

皆さまの新年の平穏をお祈り申しあげますHppc300578_2
 年末は八ヶ岳山麓で過ごした。12月29日は、最低気温が-13.5度Cで、一日中氷点下だった(標高1400メートルの山小屋で)。やっとめぐり合った寒気だったので、渓流の霧氷を撮影した。Hppc290283今冬初である。枯葉の先端部に発達する霧氷を撮影していると、枯葉にもわずかにエネルギーが残されていて、それがひと花咲かせたようにみえる。 (写真上は12月30日現在の八ヶ岳連峰)

中華街で2014カウントダウン

 横浜ではいくつかの名所でカウントダウンの催しがあるが、私は中華街を選んだ。中華街は、歴史的にも、地理的にももっとも横浜らしいエリアである。Hppc310640そのうえに、竜舞と獅子舞の動き、爆竹の響きが新年を迎えるのにふさわしい。2013年12月31日の午後11時40分から横浜中華学園の校庭で、夜光龍という龍舞が催された。ブラックライトによる照明だけで竜舞を演じる。蛍光塗料を塗った龍の衣装が紫外線でわずかに明るく見える。カメラのISO感度を3200に設定しても、F2.8 1/13秒でしかシャッターがきれない。超過酷な撮影だった。

Hppc310738_2 カウントダウンが始まり、新年の0時になり、会場の全員で「コンシン・シンネン・クヮイロー」(中国語がこのように聞こえた)と合唱したあと、獅子舞が始まった。銅鑼と太鼓の小気味好いリズムに合わせたは獅子舞は、いつみても元気づけられる。ステージの演技なのでアクロバティックだ。Hpp1010784獅子舞のほうは、ISO2500 F4 1/160秒でシャッターがきれた。このころになると、町のあちこちから爆竹の響きが聞こえてきた。私は、新年を迎えた喜びをかみしめた。

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