2015/01/25

フランスの寛容…多民族に開かれた国家

 本稿を執筆するきっかけは、パリのメトロ(地下鉄)路線図を見ているときに始まった。家内がメトロ7号線の終点駅に「La courneuve-8Mai 1945」という駅名を見つけたのだ。フランスの終戦記念日の日付(1945年5月8日)が駅名になっているのである。Hpp6010304_edited1_3好奇心に駆られて行ってみることにした。そのときのレポートを2015年の賀状に書いた。多民族国家・フランスの懐の深さと寛容の精神に感動したからである。今年に入って、パリでテロ事件が発生、イスラム過激派と西欧文明の対立が問題になった。フランス共和国とはどのような国家なのか。 (写真上 La courneuve-8Mai 1945駅地上出口付近。以下の写真はすべて同駅付近で撮影したもの)

ガリアの時代
 現在、フランスの主要民族はラテン人である。しかし、紀元前、フランスがガリアと呼ばれていた古代ローマ時代にはケルト人が住んでいた。ガリアはローマ人にとって魅力的な土地だったようだ。ローマのたびたびの侵略に屈し、紀元前1世紀、ローマの属州になったHpp6010290Hpp6010299_4ローマのユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)は敗者のガリアに対して寛大な対応をした。この経過は、ユリウス・カエサルの「ガリア戦記」に書かれている。その結果、多くのローマ人(ラテン人)はガリアへ移住した。ガリアはじょじょにラテン人の土地になっていった。現在、ケルト人はブルターニュ地方に少し残っているという。 (写真上左 メトロLa courneuve-8Mai 1945駅構内。同右 地上周辺マップ)

ローマの寛容
 古代ローマのカエサルがガリア地方を平定したとき様子が塩野七生 著の「ローマ人の物語」(新潮文庫)に書かれている。それを参考にして、私が書いた『ニュルンベルグの城壁 ドイツNo.109』の一部を引用する。「カエサルのガリア攻めの戦法は、いかに相手の戦意をくじくかにあったようだ。当時、ローマの土木・建築技術は世界最高水準だった。それを駆使して攻城兵器を造りガリア(ほぼ現フランス)の城郭都市を攻めるのである。Hpp6010325_edited1高いやぐら、頑丈な防壁(囲い)、飛び道具や城門を破壊するための仕掛けなど、ローマの技術力の粋を結集して敵を攻めた。それを目の当たりにした敵は防衛を断念して降伏し、門を開かざるをえなくなる。そしてむだな血を流さず、両者にとってメリットが生ずる。敵が降伏するもう一つの理由に、カエサルの「寛容」がある。カエサルは降伏した敵国を虐待するのではなく、ローマ共和国に組み入れて属国とし、それ相当の優遇措置を講ずるのである。徴税はするものの、ほかの外敵からの保護を保証し、食料事情も配慮する。 また、属国の長の子弟をローマへ留学させてローマのシステムを学ばせる。その子弟は、帰国して属国をローマのシステムで管理するようになる。だから、カエサルの人格を知ると降伏したほうが得なのである」。私は、現在のフランスにローマの寛容の精神を感じる。

フランスの原形
 カエサルの平定後、ガリアはラテン人(ローマ人)の支配する土地となった。そして5世紀、ゲルマン民族の一派フランク族によってフランク王国に統一された。Hpp6010342_29世紀、フランク王国は三分割され、その一つの西フランク王国が現フランスの前身となった。フランスの国名はフランク族に由来する。このころにはヴァイキングとして知られるノルマン人も一つの勢力をノルマンディー地方に確立していたという。この歴史からもフランスが多民族国家になっていった経緯が納得できる。

多民族国家
 ラテン人とは、ラテン語系の言語を話す人々で、イタリア、フランス、スペイン、ポルトガル、ルーマニアなどの国家を形成している。フランスも主要民族はラテン人だが、国境線が地上にあるうえに、たびかさなる戦争で周囲から他民族が侵入・移住してきた。フランスには、ゲルマン人や中東、北アフリカ系の諸民族などが住んでいる。ウィキペディア(Wikipedia)によると、フランス市民の23%は、少なくとも親か祖父母の一人に移民がいるという。また、20世紀には多くの移民を受け入れたという。まさに、フランスは多民族国家ということになるだろう。Hpp6010301_2パリは特に顕著で、町を歩いているとその現状を納得できる。しかし私が、メトロ7号線の終点「La courneuve-8Mai 1945駅」で観察した情景は、さらにそれを越えていた。駅から地上へ出たとたん、そこにはフランスのマルシェというよりは中東のバザールが展開していた。露店を出す人々も、買いもの客も中東やアフリカ系の人々だ。ラテン系のフランス人は私の目に入らない。その光景を見て、フランスの度量の大きさを感じ、その背景を知りたいと思った。

異質なものとの共存
 寛容だったのはカエサルだけではなかった。「ローマ人の物語」には次のように書かれている。ローマ建国の祖ロムルスが執った政策について、ギリシャのプルタルコスが著作「列伝」(私は世界史でプルタークの「英雄伝」と習った)で評したことが興味深い。「敗者でさえも自分たちに同化させるこのやり方くらい、ローマの強大化に寄与したことはない」。Hpp6010318_edited1ロムルスが建国時に執った戦術と戦後処理につては、「ローマ人の物語」第1巻≪ローマは一日にして成らず≫をご一読いただきたい。「ローマ人の物語」には、全巻をとおしてところどころにローマ人気質が描かれている。ローマ人(ラテン人)には、根幹に寛容の精神が貫かれているように読める。ガリア(フランス)がローマの属国になったことで寛容の精神が培われ、現在の多民族国家につながっていると思う。Hpp6010310_edited1フランスの長い歴史の中で寛容とは言いがたい場面が多々あったが、人々の根底には脈々と寛容が息づいているのではないだろうか。
 現在、世界ではあいかわらず紛争が絶えない。イラク・シリアのイスラム国の脅威、イスラエルとパレスチナ、ウクライナやアフリカ諸国の内紛など、宗教的あるいは民族的な対立などさまざまだ。これらの対立を解決するのにもっとも必要なことは寛容(tolerance)の精神であろう。意地や沽券を捨て、自身とは異質なものを受け入れ共存することはそれほど難しくないと考える。国境が海上にあり、侵略を受けたことがない“多神教”国家の日本人だから言えるのだろうか。

表現の自由
 寛容には油断がつきものだ。油断と裏切りは裏腹である。カエサルが暗殺されたのは、寛容にともなう油断であり、暗殺者の立場に立てば裏切りだ。カエサルは無防備で元老院へ出かけ、寛容に対応した政敵に暗殺された。それは寛容に対する裏切りだった。Hpp6010342カエサルは暗殺計画を察知していたはずだ。あえて、それに備えなかったのが、カエサルのカエサルたる所以だろうか。
 さて、パリのテロ事件の背景には、当然、フランスの寛容があった。テロリストは、それを裏切ったのである。一方、私は、表現の自由や言論の自由、報道の自由にも疑問を感じる。シャルリ・エブド社のイスラム教に関するパロディーについては不詳だが、不快を感じる人(集団)がいたら、そういう表現は控えるべきではないのか。同類のパロディーをキリスト教に当てはめたらどうなるだろうか。シャルリ・エブド社はキリスト教についてのパロディーも扱っているのだろうか? 宗教観に乏しい私の疑問だ。
 なお、フランスの終戦記念日(1945年5月8日)がメトロの駅名になった経緯は未調査だ。ただ、La courneuve-8Mai 1945駅の地上出口付近に、ナチス・ドイツに対するレジスタンス運動の記念碑(写真上右)が立っていた。

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2013/11/04

第7回 プローバー’01写真展 『道』

会場:かなっくホール・ギャラリーB アクセスはDMのポップアップ画面をご参照ください
会期:2013年11月5日(火)~11日(月) 10:00~18:00 初日は13:00~ 最終日は~16:00

“創作料理”を提唱
Hpdm
 プローバー’01とのつきあいは12年になる。私が講師(私はコーチと呼んでいる)を担当するクラブではもっとも長いつきあいになる。そのため、私はメンバー一人ひとりの作風をほぼ把握しているつもりだ。一方、メンバーのほうも、私の写真論を知りつくしている。というより、私の写真論はプローバーによって鍛えられてきたと言ってよい。創作活動で、講師とメンバーが互いに手の内を知っていることが、はたして健全なのだろうか。通常、それは好ましくないというのが、私の主張だ。一種の家元制度になってしまうからだ。写真撮影にとって家元制度は好ましくない。そこで、私は“創作料理”を提案し、Hpdm_2チャレンジや冒険、実験がある作品を評価してきた。宗家の技芸を守り継承する作風、すなわち“定番料理”はよほど出来が良くないと評価しない。おそらく、メンバーにとっては“創作料理”を撮ったほうが楽ではないだろうか。私は、被写体はもちろん、モチーフや撮影テクニックに新鮮さを期待する。プローバーのメンバーは、私の評価基準も理解している。

 このたび、『道』をテーマとするにあたり、まず意義を調べた。それは次のようなものだ。①人や動物が行き来する通路。ある地点と地点をつないで長く連なった帯状のもの。②目的とするところへ至る経路。道すじ。③道のり。距離。道程。④ある状態に至る道すじ。⑤人のふみ行うべき道すじ。人としてのあり方。物事の道理。⑥ある関係を成り立たせている理(ことわり)。世間のならい。⑦教え(仏教、儒教など)。⑧ある専門分野(Ex.医学の道を究める)。⑨方法。手段。手順(Ex.解決の道を見いだす、生活の道を絶たれる)。Hp2013pb058173Hp2013pb057992私は、これらのすべてが被写体とモチーフになるとプローバーのメンバーへ伝えた。①~③は唯物論的であり、形而下の道である。④~⑨は唯心論的であり、形而上の道である。創作料理的な『道』展に取り組むには、④~⑨が欠かせないと合わせて伝えた。はたして、それは達成されたのかは、写真展会場で判定していただきたい。以下に、会場のあいさつ文とメンバーの代表作を1点ずつ掲載する。

【あいさつ文】 道の始まりはけもの道です。動物たちは、食料の採取のため、省エネと効率を追求してコースを選び、歩きはじめました。人類にとっても同じです。食料の調達と配布、交通、情報伝達など、道は文明の原点です。現代では、歩道と車道が分離し、遊歩道から高速道路まで進化してきました。一方、社寺の参道や登山道、修験道など、人間は試練を求める道も開拓しました。私たちは、人や動物、車が往来する道から、物事の道理まで、沿道での出来事を被写体にしたカラー写真38点を展示いたします。ご高覧いただけたら幸いです。 2013年11月5日     プローバー’01 一同

「けもの道」 『孤高』駒田順二Hp_01__mg_3795_2












「厳しい道」 『宙(おおぞら)へ』小木曽光利Hp_02n030_14_07_img_9201_2












「時季の歩み」 『輪だちの春』小池 測Hp_03p4154067












「軌跡」 『荒野の記憶』井上恭子Hp_04_03
















「参道」 『鎮守』山下泰雄Hp_05_23img_1681_2












「難行の道」 『修験の道』菅原郁夫Hp_064a

















「感ずる」 『仏を』海老澤英男Hp_07_2013_04_02_0132












「私の古道」 『法然院へ』門司親昭Hp_08_img_0001












「湘南道」 『車道/歩道』曽山高光Hp_09121












「くつろぎの道」 『花の道』新沼早智子Hp_11aimg
















「夢のある道」 『幻影』廣幡安子Hp_1206












「オレ達の道」 『通せんぼ』豊田芳州Hp_13p6096062_2












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2013/03/31

ドイツの自転車事情〔3〕 ドイツNo.133

モーツァルト自転車道…サイクリングの楽しみ

Hp_p6085888_2 すでに書いたように、ドイツでは自転車道が整備され、安全にも配慮され(参照:ドイツの自転車事情〔1〕 ドイツの自転車事情〔2〕)、駐輪施設や貸自転車などハード面が整備されている。当然、それらを利用するソフトも発達している。いたるところでサイクリングを楽しむ風景が見られる。路上だけでなく、公園やマルクト(市場)、駅構内や車内など、あらゆる場所にサイクリストがいる。通勤、通学、買いものなどの実務用だけでなく、レジャーとしてツアーを楽しむ人々が多い。Hp_p6085890_2

 ヴァッサーブルグの書店にサイクリング用のガイドブックが展示されていた(写真上右)。そのなかに「Mozart-Radweg」という本がショーケースに平積みにされていた(写真上左)。直訳すると「モーツァルト自転車道」ということになる。モーツァルトのファンである私の目に留まったのだ。Hpp3210839_2表紙のキャッチコピーに「ザルツブルグ地区からベルヒテスガーデン地区とチームガウの区間」とコースが記されている(左マップ参照)。オーストリーのザルツブルグはモーツァルトが生まれた町なのでコースに含まれるのは当然だ。一方、ドイツのベルヒテスガーデンとチームガウは国境をはさんでザルツブルグと隣り合わせにある地域だ。どちらも、モーツァルトが訪れたとしても不思議はないエリアだが…。ちなみに、チームガウ(Chiemgau)という町や地域は私の資料には見つからないが、チーム湖(Chiemsee)というHpp6042025Hp_up6104614Hpp6102871ート地があるのでその地域をさしているのであろう。このコースガイドに目を通したわけではないが、オーストリーとドイツ、2国にまたがるサイクリングロードが完備されているようだ。何よりも、サイクリンのコースマップに「モーツァルト」の名が冠されているのに驚いた。モーツァルトの足跡を自転車でたどるというのはすばらしい着想ではないか。(写真上3点 自転車のある風景、左から車中、ハンブルグUバーンのプラットホーム、ニュルンベルグの旧市庁舎前)

 ドイツでは、レンタル・サイクルも普及している。ニュルンベルグの市内でその施設を撮影した(写真下右)。キャッシュを投入するところがないのでカード式のようだ。英語でも操作できる(写真下左)。この施設で貸し出しと返却ができる。Hpp6123293
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 リューベックで中高年のサイクリスト・グループとすれちがった。彼らは、トラべ水路(Kanaltrave)沿いに走ってきて、橋を渡るために階段を上ってきた(写真下右)。橋の上から撮影していた私たちを見て、「第2次世界大戦では、いっしょに戦ったナー」と親しげに話しかけてきた。ドイツと日本の絆をあらためて意識した。Hp_p6026237以前、メーアスブルグでも同じようなグループに出会ったことがある。ドイツでは、サイクリングは中高年の余暇になっているようだ。

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2013/02/25

ドイツの自転車事情〔2〕 ドイツNo.131

安全のためのヘルメット小旗Hpp6026164_4

 自転車は、道路交通法では軽車両というカテゴリーに属する。荷車と同格だ。自転車は2輪で軽量・小型なので目だちにくく不安定である。しかも、原則として車道を走らなければならない(例外と専用道がある地域がある)。しかし、道路交通法は、自動車と同じように自転車にも適用される。「進入禁止」や「一方通行」「止まれ」などの標識・表示に従わなければならない。Hpp5011526_2一方、自転車は自由に購入できる。そのとき、道路交通法についての知識はほとんど知らずに乗ることになる。自転車は、公道上を無免許運転していることになる。これは、自転車が危険なだけでなく、自動車の運転手にとっても事故の危機を抱えていることになる。自転車と自動車の間には、通行上のルールやマナーにギャップがある。 (写真上右 ヘルメットを装着して小旗を掲げる親子自転車≪リューベック≫)。写真上左 下校中の学生。全員ヘルメットを装着≪リューベック≫) 

 2月15日、東京・代官山で歩道を歩いていたら、4、5台の自転車とすれちがった。自転車は、我がもの顔に走り去っていった。30メートルぐらい先の交差点まで歩いて、この歩道が「歩行者・自転車専用道路」だということがわかった。Hpp6126439ほとんどの歩行者にとっては、歩道は“歩行者専用”だと考えるのが普通だろう。運転免許を取得していない歩行者は道路交通法には関心がないし、標識を見る習慣もない。ここでも、通行上の認識のギャップが存在する。このギャップを埋めることが必要ではないか。どこで、いつ道路交通法を学ぶのかは行政の問題である。 (写真上左 旗を立てた子ども用リアキャリアー≪リューベック≫。写真下右 自転車家族≪ヴァッサーブルグ≫)
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 ドイツでは自転車運転者の安全のために、ヘルメットが普及している。また、小旗を掲げて運転している(主に牽引の場合か?)。どちらも、他者に自身を認知してもらうためである。もちろんヘルメットは頭部保護に役だつ。大学の同級生S君は、交通事故でずいぶん前に亡くなった。当時、同級生が事故の状況を説明してくれた。要点は「S君は小型バイク(自動二輪車だったか?)に乗っていて、交差点で信号停止したとき、トラックの前に止めたというのだ。Hpp6116244Hpp6126439_2視点の高いトラックの運転席からはS君の車体が見にくかったのであろう。信号が青に変わったとき、S君は轢かれてしまった」ようだ。もし、彼の自転車が小旗を掲げていたら事故に遭わずにすんだのではないか。日本でも、安全のためのヘルメットと小旗が必要だろう。 (写真上2点 ニュルンベルグの中央市場にて)

参照: 『ドイツの自転車事情〔1〕 ドイツNo.129』

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2013/01/25

ドイツの自転車事情〔1〕 ドイツNo.129

はっきりした専用レーン

 ドイツの街で目だつのは、自転車と子ども、それにお年寄りと犬だ。いずれも、ドイツでは一目も二目も置かれていると思う。ドイツに比べて日本では、自転車は肩身が狭いうえに危険だ。また、子どもたちが虐待される事件がよくある。日本の電車内でお年寄りに対するマナーの悪さは目にあまるものがある。Hpp6015532ドイツでは、犬と同伴できる場所は日本に比べてはるかに多い。いずれは、この4つについて書くつもりだが、ここでは自転車について触れよう。

 ハンブルグのホテルで朝食をとりながら窓の外を観察したとき、ドイツは自転車文化の先進国であると感じた。もちろん、自転車の性能についてではない。自転車を取り巻く環境が日本とは大違いだからだ。窓の外をひっきりなしに通勤の自転車が通過するのだ。ハンブルグは地下鉄があるので、交通機関は充実している。それでも自転車で通勤する理由は、ドイツ人は自転車が好きなのと、それを受け入れる社会環境が整備されているということだ。もちろん、自身の健康と都市環境への配慮もあるだろう。

 一方、リューベックの公共交通手段はバスだけである。地下鉄やトラムがないので、自転車は不可欠な交通手段である。そのためか、自転車用のレーンや交通標識が整備されている(写真上右 リューベックのホルステン門前)。リューベックを中心にドイツの自転車事情を紹介しよう。まず、専用レーンについてだ。日本の事情と比較するとわかりやすい。Hpp5294948Hpp6094323

(写真上2点)ハンブルグの色分けされた自転車専用レーン。

Hpp5315171(写真下左 リューベック)左から右側のレーンへ合流(横断)する自転車へ注意を喚起する自動車向けの路面標識(自転車を三角形で囲んだもの)。日本にはない緻密な交通整理だ。自転車専用レーンは原則として一方通行だ。

(写真下左 リューベック)信号待ちの歩行者を避ける配慮。●(写真下右 横浜アリーナ前・環状2号線)右寄りが自転車道。バス停がじゃまをする。視覚障害者用ブロックが歩道と自転車道の境界線になっているのも問題。Hpp6036848_2
Hpp1139243_2

(写真下左 東京都・飯田橋駅付近)ほんの一部だが、日本国内では整備されたほうに属する自転車道。●(写真下右 横浜市大豆戸町・環状2号線)歩行者優先の自転車道表示。ルールが確立されているドイツには必要ない路面標識。どちらも両方通行だ。Hppa227023_3Hpp1139205_5
参照: 『自転車専用道路の造り方 ドイツNo.39』  『自転車でどこへでも行ける ドイツNo.11』

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2013/01/06

メルヘン調のウエルツェン駅 ドイツNo.128

15分の乗り換え時間に撮影フォトアルバムHpp6083877_2

 ドイツでの列車の旅では、乗り継ぎはあまり歓迎しない。今までに何回か失敗しているからだ。少ない時間に重い荷物を運びながら階段の上り下りはつらい。列車が遅れることもある。あわてて列車をまちがえたこともあった。列車の乗り換えは緊張する。

 昨夏、ツェレからハンブルグへ戻る途中、ウエルツェン(Uelzen)という駅で乗り継いだ。列車を待ちながら駅舎を見ると何か雰囲気が違うのに気づいた。とりあえず向かいのプラットホームと駅舎を撮影した(写真上右)。すHpp6083890ると、前列車から同席してきたドイツ人のトーマス氏が、ウエルツェン駅の由来を説明してくれた。駅舎と構内はフンデルトヴァッサー(Hundertwasser)という芸術家の設計・デザインだという。彼は、Hpp6083885_2私が写真家であるなら撮影したほうがよいとアドヴァイスしてくれた。(写真上左 駅コンコース。写真右 駅コンコース)

 いつものように、乗り継ぎは次の列車に乗車するまで不安だ。乗り継ぎ時間は正味30分あったが、アドヴァイスされたときから列車が出発するまでに約15分しか残っていない。私は家内に荷物を預け、勇気を出してプラットホームの階段を駆け下りた。そのときに撮影したウエルツェン駅構内の写真を紹介する。駅舎にこれほどのアートやファンタジーが取り入れられているのは珍しいのではないか。フリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサー(1928年~2000年)についてはHpp6083900Hpp6083903 Wikipedia を参照してほしい。彼は、日本の建築や施設にも関係しているようだ。(写真上左 エレベーターの出入り口。写真上右 ホームへの階段)

 なお、私はドイツのどこの駅にも関心がある。特に小さな駅が好きだ。途中下車して駅舎や生活、人情などを撮影してみたい。(写真下左 ウエルツェン周辺地図ポップアップ可。写真下右 コンコース内のモニュメント)Hpp1069115_2Hpp6083893

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2012/10/27

菊名ハロウィン・ウイーク 横浜No.63

駅コンサート仮装コンテストHppa277049_2

 10月27日(土)から31日(水)まで、菊名ハロウィン・ウイークが開催される。平成22年から始まり、今年で3回目だ。Hppa277193_3年々、充実して盛り上がりを見せている。主催者である「菊名の未来を考える会」の努力と地域コミュニティーの協力のおかげだろう。特別企画として、「チャリティー駅コンサート」(27日、28日)、「ポスターコンテスト」Hppa277133(投票27日、28日 11:00~16:00)、「仮装コンテスト」(28日15:30~16:00)が東急・東横線菊名駅改札口前のステージで開かれる。私は、駅コンサートを目あてに出かけた。主催者や来賓のあいさつの後、地元・大綱中学の吹奏楽部による演奏が始まった。私は、中学生の未熟ながらも真剣な演奏に好感を持った。音楽は人を幸せにすると確信しているので、若者たちの未来は約束されていると思った。Hppa277123ところで、大綱中学の吹奏楽部は、いろいろな大会で実績をあげているという。 (写真上右 大綱中学校・吹奏楽部。同左 木管楽器とコントラバスの八重奏〈部分〉)

 「ポスターコンテスト」というのは、ハロウィンをテーマに描いたポスターで地元を元気づけようという企画だ。投票で入賞作品を決めるらしい。Hppa277187「仮装コンテスト」はハロウィンの衣装自慢比べである。昨年、見学したが、家族、職場、カップルなどが奇抜な仮装で登場していた。 (写真上右 金管五重奏。写真左 ポスターコンテストの投票箱とチャリティーの募金箱)

 駅を出て商店街を少々歩いた。ハロウィン衣装の子どもたちが嬉々として菊名の町を歩いていた。“カボチャ・マーク”のあるお店めぐりに関心があるようだ。「ハロウィンまっぷ」に載っている協賛店へ行くと、お菓子がもらえ、シールを貼ってもらえる。ある店内をのぞくと、店員までハロウィンカラーの衣装で応対していた。町をあげてハロウィン・ウイークを盛り上げているようだ。ちなみに、協力参加している地元の店舗136店、近隣の学校5校だという。Hppa277198_2Hppa277203

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2012/10/17

なつかしいタイムトラベル

小江戸・栃木…フォトレポートHp_pa065696

 小京都とか小江戸をキャッチフレーズにする町がある。西のほうでは「小京都」(しょうきょうと)、東では「小江戸」(こえど)と言われる場合が多い。どちらも町の宣伝文句になっている。京都や江戸の町並みと情緒に人気があるのだろう。どれぐらい京都らしいのか、江戸らしいのか、期待して訪れると納得できる場合もあれば、がっかりする場合もある。それは、訪問者の期待度によって変わるだろう。一方で、京都や江戸について、私たちはどんなイメージを持っているのだろうか。かなり漠然としているうえに、個人差も大きい。それが期待の差 になって表れるのである。いずれにしても、私たちは古い町並みのタイムトラベルが好きなのではないか。

 10月6日、ヌービック・フォト・フレンズ 5の撮影会で栃木市へ出かけた。栃木市は、「小江戸」のほかに「蔵の街」も売り物にしている。蔵の街もいろいろなところで町の肩書になっている。Hp_2なぜ、我々は蔵造りの建築にロマンを感じるのだろうか。蔵には「蔵が建つ」というたとえがあるように富と成功の象徴であるからか? 頑丈な人を寄せ付けない構造に家屋の夢を感じるのか? 小江戸・栃木は、けっこう楽しめた。栃木の人々が親切で外交的だからだ。その象徴が「お蔵のお人形さん巡り」というイベントだ。市内56か所の店舗などで、それぞれが自慢のひな人形を展示公開し、訪問客に親切に応対してくれた。撮影で、私は、「人情」と「歳月」を意識した。すなわち、「なつかしさ」をモチーフにした。

 私は、栃木の町造りをドイツと比較してみた。江戸時代の栃木の規模はドイツの小都市と同じぐらいだろう。おそらく、生活圏は歩行可能範囲で、コミュニティーにはちょうどよい大きさだったのではないか。ドイツほどはっきりしていないが、旧市街と新市街があり、水運がある。ドイツの町を歩くつもりで栃木を散策した。

写真上 栃木は水運のある町だった。市内を流れる巴波川は栃木と江戸を結ぶ水運に利用されていたという(写真上右マップ参照 ポップアップ可 。ドイツでもほとんどの町に水運がある。今夏、訪れたハンブルグやリューベック、ツェレにも川や運河があった。

写真下2点 左●リューベック 周囲を川と運河で囲まれた町 右●ツェレ 現在は観光とレジャー用の運河だが、かつては輸送に使われていたと思われるHp_p6026554Hp_p6073368_2

写真下3点 ●万年筆病院 万年筆が筆記具の主役だった時代があった。入学祝いのプレゼントに万年筆をもらったことがある 瀬戸物屋 私は昔、こう呼んだものだ のれんのある交番。昔は実在したのだろうかHp_pa065761_2Hp_pa066008Hp_pa066006






写真下3点 左●エキゾチックなカフェ 中●タイムトンネル カーブミラーが入口だ 右●旧市役所庁舎の扉 建築は現市庁舎の別館として使われているHp_pa065663Hp_pa065826Hp_pa065800

写真下2点 左●お稲荷さん 駐車場の片隅にひっそりたたずむが、正一位の稲荷神社。 右●古道具屋の釜Hp_pa065844_2Hp_pa065755













写真下2点●栃木病院 大正2年建造の西洋館Hp_pa065866_2Hp_pa065977

写真下2点 左●蔵の内部 蔵を展示場にした家具屋の中で 右●ひな人形 「お蔵のお人形さん巡り」というイベントが11月4日まで開催されている。市内56か所の店舗などで、それぞれが自慢の人形を展示公開しているHp_pa065682Hp_pa065934

写真下 ●オクトーバーフェスト 栃木駅前にテントを張りドイツビール祭りを開催。本場の「ヴァイツェン」を楽しんだHp_pa065972

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2012/06/15

ビールを燃料にして走る車?! ドイツNo.118

気勢をあげてハンブルグの公道を走行Hpp6083977_2

 ハンブルグの町で奇妙な車を見つけた(写真2点)。車には数人の若者が乗っていて、ビールのジョッキーを傾けながらペダルをこいでいる。ときどき気炎や奇声をあげて、いかにも愉快そうだ。見つけた場所は、UバーンのSt.Pauli(ザンクト・パウリ)駅付近の交差点だった。翌日は、Glacischaussee(グラツィシャウスゼー)通りとFeldstr.(フェルド通り)の交差点で見た。

Hpp6094389 車体のフロントにビア樽が置かれ、屋根には「BierBike.de」と書かれた看板がある。看板は「ビール自転車」と訳すべきか。エンジンは付いていないようだ。人力車といってよいだろう。ビールを飲んで上機嫌でペダルを踏むという情景は、ビールを燃料にして走る車と解釈したい。彼らは乗客ではなくドライバーとエンジンに相当する。乗車目的は、エンターテインメントのほかに、市内観光、私的パーティ―などのようだ。もちろんこの車じたいが宣伝カーになっている。詳細はホームページを参照してほしい。このメカニズムとスタイルで公道を走れるとは、さすがにビール王国ドイツらしい。

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2012/05/26

郵便馬車と道路事情 ドイツNo.116

ヴァッサーブルグの市博物館(Stadt Museum)Hpp6075565

 歌曲集「冬の旅」は、ウィルヘルム・ミューラーの詩にシューベルト(1797~1828年)が曲を付けたものだが、暗い曲想が全曲を貫いている。相澤昭八郎氏の解説(CD)には、シューベルトの晩年の「自画像を描いたかもしれない」と書かれている。健康と経済状況の厳しさが表出したとも言えるし、芸術を突き詰めていくとだれもが達する境地とも言える。24曲の中で第13曲目の「郵便馬車」は、わずかな明るさがある。出だしのメロディーは軽やかな車輪とポストホルン(御者が郵便馬車の存在を知らせるラッパ)の響きを感じさせるが、すぐ沈んだ雰囲気になる。Hpp6075576_2当時の人々にとって、郵便馬車は単調な生活に変化を運んでくる救いであったようだ。期待に胸を膨らませるが、ほとんど当てが外れるのだろう。歌曲「郵便馬車」には、そのような気持ちの変化が歌われているように思える。(写真上 郵便馬車の前部 写真左 同後部)

 19世紀初頭、郵便馬車は通信手段だけでなく交通の役割も大きかった。それだけに人々の期待も大きかったと思われる。Hpp6075759私は、人々に喜びや悲しみ、夢や失望を運んでくる郵便馬車とはどのようなものなのか知りたかった。ヴァッサーブルグの博物館で、展示されている馬車を見たときは感激した。(写真右 ヴァッサブルグ市博物館 写真下左 郵便配達夫〈御者〉の帽子)

 坂井栄八郎 著「ドイツ歴史の旅」(朝日選書)に「郵便馬車の話」という一稿がある。Hpp6075570_2それによると、ゲーテの体験として、道路のひどさと乗り心地の悪さが書かれている。馬車道は、石畳で舗装されているところはまだしも、未舗装のところはぬかるみにはまり、しばしば動けなくなるという。そのようなときは、馬車から降りて後押しをしなければならない。Hpp6075567_2そのおかげで胸の靱帯を痛めたというのだ。ゲーテの体験に限らず、道路と旅の事情はこれが日常茶飯事だったようだ。同書から引用すると、「経済学者ヴェルナー・ゾンバルトの名著『十九世紀のドイツ経済』は、《百年前のドイツの旅》という大変興味深い叙述で始まっているが、それによれば当時――1800年前後――旅をするのに何よりも必要なことは、よい体調とキリスト教的忍耐心であったという。特に後者が大事であって、……」とある。石畳も乗り心地が良いというわけではない。Hp_p6075567_2長距離を結ぶ郵便馬車は、1日約100キロを走ったというが、けっして楽な旅ではなかったようだ。そのような苦難の旅をしてきた人々との出会いと届く手紙には、感激もひときわ大きかったろう。ヴァサーブルグの博物館で馬車を撮影しながら当時の人々の心情を想像したのである。

Hpp6106418_2 博物館には、1793年当時のバイエルン州の郵便馬車網の地図が掲示されていた(写真上左)。その中からミュンヘン-ヴァッサーブルグ間の部分を拡大した(写真上左)。なお、現在のドイツ郵便(Deutsche Post)のシンボルマークは、郵便馬車のポストホルンからデザインされたものだ(写真右 郵便ポスト)。ドイツ人の郵便馬車への想いが込められている。

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