2014/12/04

サンリス・プチ・トリップ

フランスでローマ時代の遺跡を見学

 今夏、パリに滞在したとき、1日だけ近郊のサンリスへ(Senlis)出かけた。パリの北約40キロに位置するサンリスには、ローマ時代の城壁(市壁)が残っていると聞き、興味をそそられた。塩野七生氏の著作「ローマ人の物語」を読んで以来、ローマ文明は現在の西欧社会の基礎になっていると知った。Hpp6070928_2町造り、建築、土木、政治、法制、経済、税制、軍事などの技術や制度には、今もローマの精神が息づいている。私のライフワークである「ドイツからの風」を撮影するにあたっても、ローマ文明を知ることが欠かせないと考えている。 (写真上 ローマ時代の城壁内部。写真下左 街路に露出した城壁の断面、幅4メートルはありそうだ)

Hpp6070804_2 紀元前8世紀ごろローマ人が進出してくる以前は、現在のフランス(ガリア地方)にはケルト人が住んでいた。サンリスは先住民族ケルト人が造った都市だという。フランスを侵略したローマ人はサンリスも自分たちの町にして砦を築いた。サンリスのパンフレットによると、ローマ人は紀元前3世紀ごろには、厚さ4メートル、物見やぐらが28塔もある城壁で町を囲ったという。この城壁の大部分が現在も残っている。この城壁を見学することがサンリス訪問の目的だ。Hpimg_0001

 さて、現ドイツ連邦共和国の主要民族であるゲルマン民族が、北方のスカンディナヴィア半島南部より南下しはじめたのが紀元前10世紀ごろだった。すでにガリア(現フランス)に住んでいたローマ人と接触することになる。「ドイツ史」(木村靖二 著 山川出版社)によると、「紀元前2世紀ごろに、ゲルマン人はローマ人と直接対峙することになった」とある。サンリスの城壁はケルト人だけでなくゲルマン人に対する備えにもなったのであろう。Hpimg_0002「ローマ人の物語」(塩野七生 著)では、ゲルマン人はローマ人にとって終始(AC476年、西ローマ帝国滅亡まで)蛮族あつかいである。しかし、ゲルマン人はローマ人と敵対する一方、進んだローマの文化やシステムを学びまねたと「ドイツの歴史」(マンフレット・マイ著 小杉尅次 訳 ミネルヴァ書房刊)には書かれている。私は、Hpp6070801ドイツの生い立ちを知るために、ゲルマン人が接触したローマ文明を知りたいという願望に駆られた。少しでも当時のローマ文明に触れたいと願っている。 (写真下右 日本語版ガイド。写真下左 観光案内所)

 さて、サンリスへの往復は簡単ではなかった。パリ北駅でチケットがうまく買えないのだ。出札口でやっと買えたチケットを見ると、出発まで待ち時間が1時間以上ある。北駅で2時間も無為に過ごしてしまうことになった。Hpp6070979しかもサンリスへはシャンティイーでバスに乗り換えねばならない。その乗り継ぎの待ち時間がさらに1時間ある。サンリスへ着くのは午後1時になってしまう。パリに帰着する時間を午後5時に設定したので、帰路のバスの出発時刻が午後3時になる。現地には約2時間しか滞在できないことになる。楽しみにしていたサンリス見学はプチ・トリップになってしまった。以前はサンリスへも鉄道の便があったのだが、廃線になってしまったようだ。現在、旧サンリス駅はバスの発着所になっている。そこまでシャンティイーからバスが運行されている。振り返ってみると、鉄道とバスの連絡チケットを慣れないパリの自販機で買うのがたいへんだったのだ。 (写真左 サンリスの中心にあるパルヴィノートルダム聖堂)

 サンリスに着いてから、まず観光案内所(OFFICE DE TOURISME)へ向かった。案内所は、パルヴィノートルダム聖堂の真ん前にあった。ドイツでいえばマルクト広場だ。そこで、小冊子のガイドブックをもらった。日本語版もある。さっそくそれを頼りに町を歩きはじめた。Hpp6071028しかし、なかなか城壁へ近づけない。やっと、入口らしいところを見つけて城壁の中へ入った。そこには、今までの視界とは異なる風景が展開していた。何が違うのか、ひと言ではうまく言えないが、時代というか、風格というか、精神というか、私には紀元前3世紀のローマ時代にかなり近い風景だと感じられた。バスの時間が迫っているので、数カット撮影してその場を後にしたが、なんとも無念であった。 (写真右 旧サンリス駅)

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2013/04/16

ハンブルグのフィッシュマルクト ドイツNo.134

ドイツの幸せ…朝から大さわぎ

Hpp6104629_2 ハンブルグの名物・名所といえば、港とフィッシュマルクト、レーパーバーンだろうか。歓楽街のレーパーバーンは遠慮するとして、昨夏はハンブルグ港とフィッシュマルクトを見学した。フィッシュマルクトは2度目の訪問だ。ハンブルグ港の一角に大規模なマルクト(市場)が開かれる。ドイツでは、どこの町のマルクトも、それぞれ郷土色が出て興味深いが、フィッシュマルクトは格別である。ひと言でいえばHpp6104648大規模Hpp6104647である。トレーラーの露店が軒を連ね(写真上右)、あらゆる生活必需品や用品が販売される。衣食住にかかわる商品はもちろん、みやげ物、玩具、装飾品、園芸用品、ペットまで多彩だ。マルクト・ハレ(ホール)には舞台と客席がしつらえられ、バンドがHpp6104682Hpp6104691ってライブコンサートが盛り上がる。近在の市民が家族連れで大挙して押しかける。私たち旅行者にとっては、ドイツの旅情を盛り上げてくれる。なお、フィッシュマルクトについて書くのは2回目だ。

 だいぶ前に見学したことがあるのだが、再度見たくなって出かけた。マルクトは、毎週日曜日の朝5時から始まる。Hpp6104625Hpp6104683その時刻に合わせて出かけたいのだが、ホテルの朝食をキャンセルしなければならないのであきらめた。昨夏は、終了間際の9時ごろに現地へ着いた。すれちがう人々は買った荷物を抱えて帰途についていた。Hpp6104633家族連れ、カップル、老若男女、それぞれの表情から満たされた喜びと幸せを読み取ることができた。私たちは片付けはじめたマルクトの中心部へ向かった。発泡スチロールやダンボールなどの包装材が散在して、マルクトの盛況を想像した。 (写真下4点 マルクトハレの客席、ステージ、踊る人々、片隅に置かれた子ども用バギー)

Hpp6104735 ライブステージのあるマルクト・ハレは、ハンブルグ港の岸壁沿いにあるレンガ造りの建築だ。中に入ると、バンドのサウンドと人々の歓声、それにビールの香りが充満していた。Hpp6104717Hpp6104707Hpp6104739日曜日とはいえ、朝からこんなに騒いでよいのだろうか、と憂慮した。しかし一方でうらやましさも感じた。それは、ほとんどが家族連れだからである。私はステージのそばで撮影しながら、ドイツ人の幸せの一端を感じたのである。フィッシュマルクトは、ドイツの幸せの象徴ではないか。当日はハンブルグを発つ日だったが、いい思い出ができた。 (写真下左 ハンブルグ港。写真下右 マルクト・ハレ)Hpp6083997

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2012/12/15

ノーベル賞のメダルチョコ

EUの平和賞 受賞は納得できるHppa126299

 スウェーデンのストックホルムにあるノーベル博物館には付属のカフェがあるそうだ。そこで「ノーベルアイス」を食べると、アイスクリームの上にノーベル賞のメダルをかたどったチョコレートが乗っているという。付属のショップではチョコレートだけも販売されているそうだ。私がおみやげにいただいたチョコレートと同じだ(写真右)。山中教授が買ったといわれるメダル・チョコも同じらしい。このレポートは、他人から聞いた話とネットからの取材だ。メダルチョコを紹介しよう。

 このたび、EU(ヨーロッパ連合)がノーベル平和賞を受賞した。賛否両論があるようだが、私は納得できる。ローマ時代(紀元前)以来、ヨーロッパは、多くの民族が離散集合して争い、そのバランスのうえに成り立ってきた。Hpp6083863Hppa126309そこに貫かれているのは国家ローマ(王政、共和政、帝政)の寛容の精神だと思う。ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)は、それを実践した典型的人物だった(「ローマ人の物語」塩野七生 著より)。異質な民族が一つの共同体を形成するのに、もっとも必要なものは寛容である。この寛容の精神が評価されたのが、今回の受賞のような気がする。EU結成は、ローマの寛容が具現した一つだといえないか。EUの未来は安寧ではないだろうが、この受賞がきっかけになって進展するであろう。ノーベル賞にはこのような側面がある。きっと、カエサルは草葉の陰で喜んでいるにちがいない。(写真上左は、ドイツ・ツェレ駅前でなびくEU加盟国の旗。同右はTV報道)

参照:『ニュルンベルグの城壁 ドイツNo.109』

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2011/11/06

ニュルンベルグの城壁 ドイツNo.109

堅固な城壁は平和につながるHpp6133556

 ニュルンベルグ旧市街の北西端に町のシンボルともいえるカイザーブルグがある(写真下 旧市街の中心部から見たカイザーブルグ)。今から1000年前、そこには高さ50メートル、Hpp6123394長さ250メートルの砂岩の岩山が突き出していたという。砂岩のことを古いドイツ語でnuorinという。現在のニュルンベルグは「砂岩の山」という意味で、「Nuorin-berg」と言うようになり、Hpp6113080 Nurnbergになったと解説書に書かれている。実際、カイザーブルグは砂岩の上に建ち、城壁はもともとあった自然の砂岩を切り出したブロックで造られている部分が多い。城壁は堅固である。深さ数メートルから10数メートルにもなる濠が周囲をめぐり、さらにその上に城壁がある。現在、濠の底から城壁の頂点まで30メートル以上あるところもある。攻めようとするHpp6123215敵はあきらめてしまうのではないか。(写真上右 カイーザーブルグと城壁。写真上左 旧市街南部の城壁。写真左 砂岩の上に建てられたカイザーブルグ)

 塩野七生著「ローマ人の物語」の「ユリウス・カエサル」(新潮文庫全40巻の中の8~13巻)をたいへん興味深く読んだ。塩野氏はカエサルの「ガリア戦記」などを参考に本著を執筆したとある。Hpp6113057以下は、この著書の要旨である。ユリウス・カエサルとはジュリアス・シーザーのことである。カエサルのガリア攻めの戦法は、いかに相手の戦意をくじくかにあったようだ。当時、ローマの土木・建築技術は世界最高水準だった。それを駆使して攻城兵器を造りガリア(ほぼ現フランス)の城郭都市を攻めるのである。高いやぐら、頑丈な防壁(囲い)、飛び道具や城門を破壊するための仕掛けなど、ローマの技術力の粋を結集して敵を攻めた。それを目の当たりにした敵は防衛を断念して降伏し、門を開かざるをえなくなる。そしてむだな血を流さず、両者にとってメリットが生ずる。Hpp6133548敵が降伏するもう一つの理由に、カエサルの「寛容」がある。カエサルは降伏した敵国を虐待するのではなく、ローマ共和国に組み入れて属国とし、それ相当の優遇措置を講ずるのである。徴税はするものの、ほかの外敵からの保護を保証し、食料事情も配慮する。 また、属国の長の子弟をローマへ留学させてローマのシステムを学ばせる。その子弟は、帰国して属国をローマのシステムで管理するようになる。だから、カエサルの人格を知ると降伏したほうが得なのである。余談になってしまったが、強い戦力とそれを支える技術は平和に貢献できるということのようだ。写真上右 城壁を構築する砂岩ブロック。写真左 遊歩道になった堀)

 ニュルンベルグの城壁周りを散策した。カイザーブルグのある北西部の城壁は特に堅固である。高く入り組んでいて取り入るすきがないように見えた(写真最上右)。このとき、カエサルのガリア攻めが思い浮かんだ。現在の城壁は、1346年ごろから建造されたといわれるが、城壁を築いたドイツ人たちも、ユリウス・カエサルの「ガリア戦記」を読んでいたのではないか。Hpp6136872_2同書は、ニュルンベルグの有史以前、1000年も前に刊行されている名著である。それを読まずして戦をするのは、「井の中の蛙大海を知らず」であろう。攻撃と守備の違いはあっても、強い戦力は戦争の抑止力になることを知っていたにちがいない。しかし、さすがに第2次世界大戦時、連合軍の攻撃には対抗できなかった。Hpp61368521945年1月、ニュルンベルグ旧市街の大部分が破壊された。その爪痕が、城壁のところどころに残っている。

 現在、城壁回りの濠は公園や遊歩道、クラインガルテン(家庭菜園・花壇)などに利用されている。NHKのBS番組 世界ふれあい街歩き「ドイツ 街道の街を歩く ニュルンベルグ」でも、城壁の一部が住宅やオフィスに利用されていると紹介されていた。昔も今もニュルンベルクの城壁は、市民の平和に貢献していると言えるのではないか。(写真上右 濠に造られた児童公園。写真上左 濠に作られたクラインガルテン。写真下右 城壁外側の小広場)

Hpp6136884 ところで、私は「ローマ人の物語」の一部(10巻)しか読んでいないが、「ユリウス・カエサル」6巻は、カエサルの全人格がいきいきと描かれていてすばらしい著作であるとわかった。現在の日本にカエサルがいたら、とつくづく思った。Hpまた、ローマという国家が紀元前1世紀、どのようなシステムで動いていたのかがよくわかった。私はカエサルにほれ込む一方、現在の西欧文明、もちろん英米も含まれるが、その礎は「ローマ」にあると理解した。ローマがこれほど大きな存在だったことを、今まで知らなかった。(写真左 ニュルンベルグ旧市街マップ ポップアップ可

参照: 「ノルドリンゲンで暮らす ドイツNo.19」 「城壁を活かす町づくり ドイツNo.72」 「中世の市壁とベルリンの壁 ドイツNo.88」

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2008/09/14

ほのぼのする信濃川上駅 八ケ岳山麓No.62

なぜ、二宮金次郎の像は消えたのかHpp9140040

 911日の朝日新聞朝刊・神奈川版に「石像ブラジルへ」という記事が載っていた。記事の要旨は、「ブラジル移民100周年を記念して二宮金次郎(尊徳)の像をブラジルへ贈ることになった。来年2月にサンパウロ市内の公園に設置される。ブラジルへ移住した人々にとって、二宮金次郎の思想や精神が大きな支えであった。それを忘れないために、サンパウロ市の神奈川県人会が像の寄贈を求めた。松沢知事も了承し、現在、300万円の募金を集めている。」

 

Hpp9140025 私たちが小学生だったころは、どこの小学校にも二宮金次郎の石像が置かれていた。そして、二宮金次郎の歌を歌ったものだ。戦後の厳しい教育・生活環境ゆえに、薪を背負いながら読書する金次郎の像は目と心に焼きついた。金次郎は、私たちのかがみ(鑑)だったのである。ブラジル移民にかぎらず、多くの日本人に影響を与えたことはまちがいないだろう。それが、いつのまにか像は撤去されてしまった。なぜなのか、いつごろだったのか記憶にない。

 

Hpp9140051_2 ところが、小海線の信濃川上駅には二宮金次郎の像が置かれている。20年前、初めて駅を訪れたとき、懐かしさがこみ上げてきた。百科事典(スーパー大辞林)によると、「二宮尊徳は江戸後期の農政家。 通称、金次郎。相模国(現神奈川県)の人。合理的で豊富な農業知識をもって知られ、小田原藩、相馬藩、日光神領などの復興にもあたる。陰徳・勤倹を説く思想とHpp9140059行動は報徳社(二宮尊徳の指導のもと小田原に設立された農民扶助のための相互融資機関)運動などを通じて死後にも影響を与え、明治以降、国定教科書や唱歌にも登場」とある。陰徳・勤倹は、高度成長期の日本にとっては、好ましいことではなかったのかもしれない。また、農業や農政は、基礎教育には直接関係がないという理由で、排除されたのかもしれない。二宮金次郎の像が消えた背景にはこのような時流があったのか?  しかし、川上村は高原野菜の農業立国なので、金次郎の精神は大切なのだろう。Hpp9140013信濃川上駅に像があるのはうなずける。「陰徳」とは、ひそかに行う善行、「勤倹」は勤勉で倹約に努めることを意味する。現在の日本や地球レベルでも十分通用する精神ではないだろうか。特に、日本の財政再建には欠かせないだろう。

 小海線の信濃川上駅(写真上右2点」)は、かつて無人駅のときもあった。現在でも駅員は一人である。JRの駅ではもっとも小規模な駅に属するだろう。私は、この駅で今までにいろいろなドラマを見てきた。出会いや別離、旅情、青春など駅ならではのロマンがあった。私には気に入った場所だ。最近、信濃川上駅に吉永小百合がやってきたという。Hpp9140033JR東日本の「大人の休日」のポスターを撮影したそうだ。素朴で小さな田舎駅の旅情がモチーフになったのだろう。大女優の登場で、駅はややにぎやかになったような気がする。駅舎の窓に、そのポスターが飾られている(写真上)。二宮金次郎は、どんな気持ちで吉永小百合を見つめたのだろうか。

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