2015/12/08

孫正隆さんとの出会い 八ヶ岳山麓No.189

信仰への途Hp2015128pc080095_2

 1941年12月8日、大日本帝国はハワイの真珠湾を攻撃して、宣戦を布告した。私が生まれた日から3か月余しか経っていなかった。父母は、さぞ不安だったろう。この戦争は多くの悲劇を生んだが、一方で、現在の平和国家の礎にもなった。ここでは、ひとりの人間が、戦争の悲惨さに立ち向かった一例を紹介しよう。

 私たちが第二の故郷として生活している八ヶ岳山麓で、珍しい方に出会った。孫正隆さんである。孫さんは宗教家である。今でも、伝道師として活動されている。歳は私と同世代で、もの心がついたころに戦後という過酷な時期を体験されたので、私とは同士である。孫さんが宗教家になった経緯を綴った著作を引用して、信仰という私にとっての難問に迫ってみたいと思う。なお、「 」でくくった部分は孫正隆さんの著作の引用、または発言である。 (写真右上 12月8日現在の八ヶ岳山麓)

 「筆者に、まだ少年だったころに経験したある事実を、あかしさせてください。
 昭和20年3月10日未明の東京大空襲で、両親と妹を亡くし、4歳で孤児となった筆者は、その前日、家財を整理に戻っていった両親らを見送って田舎に居残っていて助かり、その後母の養父母の許で育ちました。が、やがて自分の将来に不安を抱くようになり、いつしか子ども心に、ひたすら、人間として正しく生きたいことと、正しく生きていく上でいわば必須の精神的な基盤を求めるようになりました。飢え渇いた心で密かに捜し求めつづけ、それなりに成長もしつつあった少年のある日、山歩きをひとり楽しんで帰る途中、道で小さな紙片を拾ったのでした。粗末な印刷物でしたが、もしかして、筆者のかねてよりの祈りにも似た飢え渇きに応えた、明解な言葉が記されているかもしれない、と期待をもって読んだのでした。そこには、『神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである』(ヨハネによる福音書3ノ16)………とありました。Hppb010149この言葉を読み終わった時、筆者はとても深い感動と喜びと驚きのまま棒立ちしていました」。

 ここまでは、孫さんが信仰の世界へいざなわれる契機となった体験談である。私は、孫さんほどの過酷な戦後体験はなかったが、ひもじい思いはした。父に連れられての“買い出し”の経験もある。これは、多くの日本人が経験したことだろう。一方、家族全員を失うというもっとも過酷な境遇が、孫さんの精神に大きな傷跡を刻んだことは間違いないであろう。ところが孫さんはこの不条理に対し、毅然と立ち向かったのである。不安や苦労は、それをだれかにぶつけて解決したいというのが凡人の思考回路だ。通常の人間でも、苦境に立ったとき、その原因や責任を外界に求めるものだろう。孫さんは内界へ向かったのである。 「人間として正しく生きたいことと、正しく生きていく上でいわば必須の精神的な基盤を求めるようになりました」とある。自身を正し高めて苦境を乗り切るということは、なかなかできることではない。しかり、彼いわく、「この渇望そのものが天恵です」という。そして、その時出合った聖書の言葉は、渇ききった喉を潤す一杯の水のようなものだったのであろう。ヨハネによる福音書3ノ16の一節に書かれた『ひとり子』とはイエス・キリストである。孫さんは、聖書を引用して、わかりやすく説明してくださった。「神様がイエスを世に遣わされたのは、世を愛しているからである。『悔い改めて』(マルコによる福音書1ノ15)、『ナザレ人イエス・キリスト』(使徒行伝4ノ10)をわたしの救い主と信じ、かつ『告白』(ローマ人への手紙10ノ9-10)する者はひとりも滅ぶことはない」と。私は、ヨハネによる福音書3ノ16の前後を読んでみた。孫さんの心情が少しは分かったような気がした。

 次に彼は言う。「それは、この言葉(ヨハネによる福音書3ノ16)と照応する、三つの威光を観照できたからです。その時、この言葉と三つの威光とを解する理解力も与えられて、理解できました」。その三つの威光とは、「人類に対する圧倒的な深いあわれみと恵みの愛、たとえようもない清らかで聖潔な気品、心をおののかせ畏(かしこ)ませる威厳」と孫さんは書いている。聖書という書物があることすら知らなかった孫さんが、ヨハネによる福音書3ノ16と三つの威光について理解できたのは、「天恵であり天啓というしかない」という。この時すでに、孫さんの心には、『ひとり子』(イエス・キリスト)を受け入れるスキーマができていたのであろう。そして、なぜ“十字架”なのかも理解するのである。「神は、キリストなるお方を、罪深い人類の救いのために、(十字架にかけられて)身代わりの犠牲の死を遂げさせられたこと、そして、キリストをわたしの救い主として信じ受け入れる者は、罪の赦しを得、かつ罪からの救いを得る、ということでした。筆者はこれを、神のご計画と確信し信じることができました」と書いている。

 が、この時に孫さんがぶつかった障壁は次のようなものだった。「しかしながら、その後すぐに筆者は思いがけない深い悲しみに落ちたのでした…。……中略……わたしの救いのためにキリストは死なれたということは、その救い主なるお方にわたしはお会いできないということではないか…と。このように考えた時、わたしの胸の内に悲しみが俄かにわき起こり、……思わず泣き叫びたい慟哭の思いで胸が張り裂けんばかりになりました」と書いている。私は、孫さんのこの考え方が必然的な成り行きで、ここに孫さんらしさがあると感じた。そこで、孫さんにこのことについて問うと、「少年期の素朴な心情でした。せっかく巡り会った救い主なるお方に会えないということは、堪え難く悲しかった」と答えられた。Hppc040024_2さらに「これにはきっと、深いわけがあるに違いない…と思い直しました」。
 はたせるかな、この障壁は、聖書と出会った青年期になってとり除かれた。「聖書をひとり繙くうちに、救い主は死後三日目に不死に蘇られたこと、そして信じた者らにも不死に蘇る朝があると知った時、ああ、それでこそ神の救いのご計画だと得心し、救われたすべてのものは救い主なるお方と相まみえることができるとわかって、筆者の心はほんとうに晴れたのでした」。この感激を、孫さんは聖書を引用して書いている。「『御顔を仰ぎ見るのである』(ヨハネの黙示録 22の4)、『(神はわたしが)求めまた思うところのいっさいを、はるかに超えてかなえて下さる…かた』(エペソ人への手紙 3ノ20)として、臨まれたのでした」。

 この後、孫さんは過去の体験を振りかえり、『御国』を求めるようになる契機となった戦後の不幸を偲ぶのである。「神は、あの頃の私の不幸を逆手にとられて、……誰しもが、もっと深刻な不幸のただなかにあることに気づかせて下さっただけでなく、そこからの救いである『御国』 を求めるように、諭してくださったのだと思います。戦災で亡くした両親らのことを思えば、幾星霜を経て今なおその人権は無視されたままであり、従って、筆者などは『この世で…無きに等しいもの』(コリント人への第一の手紙 1ノ28)です。しかし、だからこそ、このような稀有な勿体無い経験に与るべく『あえて選ばれた』(コリント人への第一の手紙 1ノ28)のかもしれません」。

 「宇宙飛行士のフランク・カルバート氏が宇宙からの帰還後に全世界に向けて発信されたように、筆者もまた、『あの日感じたことをだれかと共有したい』と思うほどの経験をしたのです。もし、読者のあなたがわたしと同じ経験をしていたら、きっとあなたもだまってはいられなかったことでしょう。筆者はあなたが経験したかもしれない経験をしたのです」。なんと慎ましい考えではないだろうか。「しかしながら、以上の筆者の経験は『御国』を目ざす信仰のいわば“ふりだし”です」と結んでいる。Hppc040077_2

 この一文は、彼の宗教家としての証言が語られているが、孫さんにして経験できたことが簡潔に記されていて、私たちの参考になると思い、12月8日の開戦日に合わせて掲載することにした。また、孫さんとの出会いは、八ヶ岳山麓という神秘的な自然の中での出来事なので、カテゴリーを八ヶ岳山麓とした。

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