フランスの寛容…多民族に開かれた国家
本稿を執筆するきっかけは、パリのメトロ(地下鉄)路線図を見ているときに始まった。家内がメトロ7号線の終点駅に「La courneuve-8Mai 1945」という駅名を見つけたのだ。フランスの終戦記念日の日付(1945年5月8日)が駅名になっているのである。好奇心に駆られて行ってみることにした。そのときのレポートを2015年の賀状に書いた。多民族国家・フランスの懐の深さと寛容の精神に感動したからである。今年に入って、パリでテロ事件が発生、イスラム過激派と西欧文明の対立が問題になった。フランス共和国とはどのような国家なのか。 (写真上 La courneuve-8Mai 1945駅地上出口付近。以下の写真はすべて同駅付近で撮影したもの)
ガリアの時代
現在、フランスの主要民族はラテン人である。しかし、紀元前、フランスがガリアと呼ばれていた古代ローマ時代にはケルト人が住んでいた。ガリアはローマ人にとって魅力的な土地だったようだ。ローマのたびたびの侵略に屈し、紀元前1世紀、ローマの属州になった。
ローマのユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)は敗者のガリアに対して寛大な対応をした。この経過は、ユリウス・カエサルの「ガリア戦記」に書かれている。その結果、多くのローマ人(ラテン人)はガリアへ移住した。ガリアはじょじょにラテン人の土地になっていった。現在、ケルト人はブルターニュ地方に少し残っているという。 (写真上左 メトロLa courneuve-8Mai 1945駅構内。同右 地上周辺マップ)
ローマの寛容
古代ローマのカエサルがガリア地方を平定したとき様子が塩野七生 著の「ローマ人の物語」(新潮文庫)に書かれている。それを参考にして、私が書いた『ニュルンベルグの城壁 ドイツNo.109』の一部を引用する。「カエサルのガリア攻めの戦法は、いかに相手の戦意をくじくかにあったようだ。当時、ローマの土木・建築技術は世界最高水準だった。それを駆使して攻城兵器を造りガリア(ほぼ現フランス)の城郭都市を攻めるのである。高いやぐら、頑丈な防壁(囲い)、飛び道具や城門を破壊するための仕掛けなど、ローマの技術力の粋を結集して敵を攻めた。それを目の当たりにした敵は防衛を断念して降伏し、門を開かざるをえなくなる。そしてむだな血を流さず、両者にとってメリットが生ずる。敵が降伏するもう一つの理由に、カエサルの「寛容」がある。カエサルは降伏した敵国を虐待するのではなく、ローマ共和国に組み入れて属国とし、それ相当の優遇措置を講ずるのである。徴税はするものの、ほかの外敵からの保護を保証し、食料事情も配慮する。 また、属国の長の子弟をローマへ留学させてローマのシステムを学ばせる。その子弟は、帰国して属国をローマのシステムで管理するようになる。だから、カエサルの人格を知ると降伏したほうが得なのである」。私は、現在のフランスにローマの寛容の精神を感じる。
フランスの原形
カエサルの平定後、ガリアはラテン人(ローマ人)の支配する土地となった。そして5世紀、ゲルマン民族の一派フランク族によってフランク王国に統一された。9世紀、フランク王国は三分割され、その一つの西フランク王国が現フランスの前身となった。フランスの国名はフランク族に由来する。このころにはヴァイキングとして知られるノルマン人も一つの勢力をノルマンディー地方に確立していたという。この歴史からもフランスが多民族国家になっていった経緯が納得できる。
多民族国家
ラテン人とは、ラテン語系の言語を話す人々で、イタリア、フランス、スペイン、ポルトガル、ルーマニアなどの国家を形成している。フランスも主要民族はラテン人だが、国境線が地上にあるうえに、たびかさなる戦争で周囲から他民族が侵入・移住してきた。フランスには、ゲルマン人や中東、北アフリカ系の諸民族などが住んでいる。ウィキペディア(Wikipedia)によると、フランス市民の23%は、少なくとも親か祖父母の一人に移民がいるという。また、20世紀には多くの移民を受け入れたという。まさに、フランスは多民族国家ということになるだろう。パリは特に顕著で、町を歩いているとその現状を納得できる。しかし私が、メトロ7号線の終点「La courneuve-8Mai 1945駅」で観察した情景は、さらにそれを越えていた。駅から地上へ出たとたん、そこにはフランスのマルシェというよりは中東のバザールが展開していた。露店を出す人々も、買いもの客も中東やアフリカ系の人々だ。ラテン系のフランス人は私の目に入らない。その光景を見て、フランスの度量の大きさを感じ、その背景を知りたいと思った。
異質なものとの共存
寛容だったのはカエサルだけではなかった。「ローマ人の物語」には次のように書かれている。ローマ建国の祖ロムルスが執った政策について、ギリシャのプルタルコスが著作「列伝」(私は世界史でプルタークの「英雄伝」と習った)で評したことが興味深い。「敗者でさえも自分たちに同化させるこのやり方くらい、ローマの強大化に寄与したことはない」。ロムルスが建国時に執った戦術と戦後処理につては、「ローマ人の物語」第1巻≪ローマは一日にして成らず≫をご一読いただきたい。「ローマ人の物語」には、全巻をとおしてところどころにローマ人気質が描かれている。ローマ人(ラテン人)には、根幹に寛容の精神が貫かれているように読める。ガリア(フランス)がローマの属国になったことで寛容の精神が培われ、現在の多民族国家につながっていると思う。
フランスの長い歴史の中で寛容とは言いがたい場面が多々あったが、人々の根底には脈々と寛容が息づいているのではないだろうか。
現在、世界ではあいかわらず紛争が絶えない。イラク・シリアのイスラム国の脅威、イスラエルとパレスチナ、ウクライナやアフリカ諸国の内紛など、宗教的あるいは民族的な対立などさまざまだ。これらの対立を解決するのにもっとも必要なことは寛容(tolerance)の精神であろう。意地や沽券を捨て、自身とは異質なものを受け入れ共存することはそれほど難しくないと考える。国境が海上にあり、侵略を受けたことがない“多神教”国家の日本人だから言えるのだろうか。
表現の自由
寛容には油断がつきものだ。油断と裏切りは裏腹である。カエサルが暗殺されたのは、寛容にともなう油断であり、暗殺者の立場に立てば裏切りだ。カエサルは無防備で元老院へ出かけ、寛容に対応した政敵に暗殺された。それは寛容に対する裏切りだった。カエサルは暗殺計画を察知していたはずだ。あえて、それに備えなかったのが、カエサルのカエサルたる所以だろうか。
さて、パリのテロ事件の背景には、当然、フランスの寛容があった。テロリストは、それを裏切ったのである。一方、私は、表現の自由や言論の自由、報道の自由にも疑問を感じる。シャルリ・エブド社のイスラム教に関するパロディーについては不詳だが、不快を感じる人(集団)がいたら、そういう表現は控えるべきではないのか。同類のパロディーをキリスト教に当てはめたらどうなるだろうか。シャルリ・エブド社はキリスト教についてのパロディーも扱っているのだろうか? 宗教観に乏しい私の疑問だ。
なお、フランスの終戦記念日(1945年5月8日)がメトロの駅名になった経緯は未調査だ。ただ、La courneuve-8Mai 1945駅の地上出口付近に、ナチス・ドイツに対するレジスタンス運動の記念碑(写真上右)が立っていた。
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