聖ゼバルドゥス教会の日曜ミサ ドイツNo.105
ヴァッサーブルグからグラフィング、ミュンヘン経由でニュルンベルグまで7時間ぐらいかかってしまった。初めてのルートであるうえに、乗り継ぎがうまくいかず重い荷物を運びながら2回乗り換えるのはけっこうたいへんなのだ。ニュルンベルグに着いたときはほっとすると同時に一気に疲れが出た。ひと休みして、夕方、ニュルンベルグの町へ出かけた。6月のドイツは、午後6時を過ぎても日は高い。ホテルから徒歩5分ほどのところに聖ゼバルドゥス教会(St.Sebalduskirche)があったので訪ねることにした。この教会名の訳には「聖ゼーバルト教会」というのもある。Sebaldは聖人の名まえで、それにちなんで建立されたプロテスタントの教会だ(写真右上)。
どこの町でも、教会を見学するのは私の方針だ。夕刻のひと時を過ごそうと聖ゼバルドゥス教会へ近づいた。開け放たれた出入り口からオルガンの響きが聞こえてきた。バッハのフーガだ。聖堂へ入ると、立派なパイプオルガンが目に入った(写真上左)。本場のオルガンを体感しようと末席に座った。聖堂で生のパイプオルガンを聴くのは初めてだったので感動した。これがバッハの追求した響きであることはまちがいない。バッハの敬虔な気持ちを追体験しようと試みた。しかし、演奏はすぐ終わった。定例の演奏か、リハーサルか、もっと長く聴きたかった。プロテスタントの信者であったバッハはたくさんのオルガン曲を作曲している。言うまでもなく、オルガンと信仰は深い関係があるのだ。
聖堂内には、聖ゼバルドゥス教会とニュルンベルグの小史を物語る写真が展示されていた。10数点のうちの10点ほどを撮影させてもらった。その中には、1945年4月20日、第2次世界大戦でドイツが敗戦した当時、破壊された聖ゼバルドゥス教会の塔の写真も含まれていた(写真上左は尖塔、同上2点は破壊された教会全景と内部)。また、1934年ニュルンベルグで開催されたナチ党全国大会のようすを表すと思われるHaupt-markt(中央市場)の写真が印象的だった(写真下左 画面左上に聖ゼバルドゥス教会の塔が見える。中央の大屋根は旧市庁舎)。
この後、ドイツは第2次世界大戦に参戦し転落の道をたどるのである。大戦でドイツの主要都市は連合軍から徹底的に攻撃された。1945年1月2日、ニュルンベルグも大規模な空爆で旧市街の大部分が破壊され、1829人が死亡したという。しかし現在、旧市街や教会は元どおり復元され、中世の町並みを再現している。
翌々日の午前10時、日曜ミサを見学するため聖ゼバルドゥス教会を訪れた。入口に部外者お断りの立て札があり、団体の観光客が堂内へ入れずに出てきた。私は観光客と同類項なのでためらったが、あきらめなかった。係に「I’m from Japan. I’d like to study Missa …」と伝え、末席を指し示した。答えは「Non problem」だった。鐘が連打され、オルガンの演奏でミサは始まった。牧師のドイツ語の説教はなんと快い響きだろう。ときには歌い、それに合わせてオルガンが鳴り信者が合唱する。「メソポタミア」「カッパドキア」「アジア」などわずかな言葉だけで聞き取れた。意味はわからなくても、聖堂に響きわたる抑揚とリズムが心地よい。
牧師の説教は25分ぐらい続いたと思う。ミサの終盤、一部の信徒が退出した後、オルガン演奏のなかで残った信徒が一人ずつ祭壇の前へ出て礼拝した。このときのオルガン曲は4声のフーガだったが、フーガ(対位法)という音楽形式がこのような場面に調和することを初めて知った。敬虔なプロテスタントであるバッハがたくさんのフーガを作曲したわけが理解できるような気がした。さらにバッハのオルガン曲が流れるなかミサは終了した。牧師は聖堂の出口に立ち、信徒ひとりひとりを握手で見送った。私にも握手を求めたので、喜んで応じた。長身の颯爽たる牧師だった(写真上左)。
(写真上右は聖堂内部、同右は聖堂入り口に貼られたウエルカム・メッセージ。日本語も書かれていた)。
参照: 「『フーガの技法』についての考察 ドイツNo.77」 「フラウエン教会の洗礼ミサ ドイツNo.102」
『豊田芳州のTheme』に掲載された写真と文章は、著作権法で保護されています。無断使用は、ご遠慮ください。All pictures and writings on this blog are copyrighted.
| 固定リンク | 0
この記事へのコメントは終了しました。
コメント