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2009/08/23

渓流に立つ喜び 八ケ岳山麓No.82

Hpp8178074 初秋の渓流のようす

 森の中で、もっとも至福の時を感じるのは、渓流で釣り糸を垂れているときだ。撮影はもちろん好きだが、労働という意識がしみついていて、やや負担を感じる。それに引き替え、渓流釣りは完全な遊びだ。解放感があり、失敗を恐れる心配がない。釣れなくてもよいのだ。私にとっては釣れないことは失敗ではない。魚がいないときもあれば、いるとわかっても倒木やブッシュで竿を出せないときもある。自分の自由にならないことを相手にしていて、うまくいかないことがあるのは当然だ。

 これは撮影と同じだ。屋外撮影では、被写体を自分の思い通りにはできない。天候、ライティング、季節感、花期など、思い通りにならないときがほとんどだろう。思い通りにならないことを、私は外界と言っている。これに対して内界がある。撮影における内界とは、表現意図(イメージやモチーフなど)と撮影テクニックをさす。これらは自分の思い通りになる。思い通りにならない外界に対して、いかに自身の内界を駆使して作品を仕上げるかが撮影のおもしろいところだ。自然相手の渓流釣りもしかりだ。予想外の展開で、自身のアイディアを工夫するところにおもしろさがある。しかし、釣れなくてもよいからといって、手を抜くわけではない。むしろ、撮影よりは真剣かもしれない。

 私は、源流や支流などの細流が好きだ。自然豊かであるうえに、人の気配が少ない。植林も水辺は控えているので、流域は自然林になっている。水は澄み、樹木、岩、苔、野鳥、草花なが豊富だ。渓流ではいつも一人である。単独行動には危険が付きまとう。携帯電話を持つようになってから少し安心できるようになったが、油断できないことに変わりはない。この緊張感がまたたまらない。Hpp8178061_4細流では、魚の潜んでいる場所(餌を落とすポイント)を読むのがおもしろい。下流や中流よりは、読みを絞れる。読みが当たったときの喜びが、渓流釣りの醍醐味である。読みが当たって魚が出てくれば、私は釣ったことにしている。

 10年ぐらい前から、魚の居場所を読むとき、私は無意識に魚になっているのに気づいた。魚に感情移入できるようになった。魚に遊びはない。常に生きるか死ぬかの真剣勝負である。だから、私もいい加減な気持ちでつき合わない。前項でつりは「遊び」と言ったのと矛盾しない。「遊び」というのは人間社会の概念であるが、魚に対しては真剣勝負である。私は勝つために真剣に遊んでいるのである。わずかでも魚と同じ土壌で思考できるのはうれしい。これが渓流釣りの魅力だ。

Hpp8178052_2 8月17日、朝の最低気温は12.5度Cだった。平年なら15度C以上あるので、あきらかに秋が忍び寄っている。夕刻、いつもより上流に入渓した。さっそく足元から魚が逃げた。そこは実績があり、ポイントだとわかっていたが、倒木があるのであきらめた場所だ。残念だったが、これで先行者や動物が入っていないことがわかった。あとは自身の実力を出しきるだけだ。15メートル遡行して落ち込みを岩が隠している場所を見つけた(写真上右)。通常、魚は下流を意識しないが、岩が下流にあればなおさら好都合だ。岩の先に餌を落とした。3投目で魚がかかった。しかし、両岸が迫った細流では暴れる魚を寄せる場所がない。どうしようかと考えているうちに、岩の下に逃げ込まれてしまった。根がかりのように糸が張ってびくともしない。3分ぐらい糸を張っておいてから緩めると、また魚が動き出した。竿を立て少しずつ下流に引き寄せた。20センチのイワナだった。小さなスペースを見つけて撮影した(写真上左)。その後、15センチと25センチを釣って納竿した。釣り味といい、渓流の雰囲気(写真最上)といい、最高の釣りだった。

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