ビール醸造ことはじめ 横浜No.38
キリンビールのルーツ
最近、横浜の地ビールを飲む機会に恵まれた。横浜ビール株式会社製の「開港 LAGER」と「SAMURAI BEER TOMMY」である。これらは開国博Y150にちなんだ限定商品のようだ。「開港 LAGER」のラベルには、江戸幕府がペリー一行を応接したときの有名な絵が印刷されている。「SAMURAI BEER TOMMY」には、1867年(慶応3年)小花和重太郎、立石斧次郎(愛称トミー)兄弟がビール(輸入品)を飲んでいるスナップ写真が印刷されている。「TOMMY」という名称は、この写真のモデルからとったものであろう。どちらも上面発酵のような(酵母が混じっている)ビールで、ドイツビールを思い出す重厚な味だ。日本のビール醸造は横浜から始まった。そこで、開港直後のビール事情を調べてみた。
中区千代崎長1-25(旧 山手123番)にキリン園という公園がある(写真右)。そこに、「麒麟麦酒開源記念碑」があり、日本のビール醸造の発端について記されている。由緒書きによると、「1870年(明治3年)、アメリカ人ウイリアム・コープランドは横浜・山手にビール醸造所スプリング・バレー・ブルワリーを(この地に)設立し、日本で初めて産業として継続的にビールの醸造・販売を行いました。コープランドは、その功績から、日本ビール産業の祖と呼ばれています。」とある。その後、スプリング・バレー・ブルワリーはジャパン・ブルワリーに引き継がれ、
1888年(明治21年)に「キリンビール」が発売された。1907年(明治40年)、麒麟麦酒株式会社はジャパン・ブルワリーを引き継いだ。この碑文から推測すると、まず麒麟麦酒があり、それから麒麟の社名が生まれたことになる。
スプリング・バレー・ブルワリーでは、ドイツ人技師ウィーガントの協力で、「ババリアン・ビール」と呼ばれ製品を発売したという。ババリア(Bavaria)とは、ドイツ南部のバイエルン(Bayern 州都はミュンヘン)地方の英語名で、大麦、小麦、ホップの産地であると同時に、ビール醸造の本場である。1870年には、ドイツの本格的?ビールが日本で醸造されていたことになる。スプリング・バレー・ブルワリーで作られたビールは、山手123番一角の地名をとって「天沼ビアザケ」とも呼ばれたという。現在、キリン園前の通りはビアザケ通りと呼ばれている。(写真上左 1885年(明治18年)ごろのジャパン・ブルワリー 写真上右 1907年(明治40年)ごろのキリンビール山手工場。 いずれも由緒書きより転用)
しかし、「横浜もののはじめ考」(横浜開港資料館刊)によると、1869年、前述のウィーラントは来日早々、山手46番にあったジャパン・ヨコハマ・ブルワリーでビール醸造にかかわっていると書かれている。すなわち、わが国最初のビール醸造は、1869年ということらしい。また、1870年には、山手68番にも醸造所があったという。「横浜もののはじめ考」によれば、醸造所開業の順序は、
山手46番のジャパン・ヨコハマ・ブルワリー(地図の1)、山手123番のスプリング・バレー・ブルワリー(地図の2)、山手68番のヘフト・ブルワリー(地図の3)の順になるようだ。スプリング・バレー・ブルワリー以外は長続きしなかったので、前述の碑文を認めてもよいかもしれない。(上右の地図は開港当時の居留地区割り。山手の番地は、開港以来変わっていない。江戸時代末期の地図が今も通用する。ただし、123番は現在、千代崎町になっている。左は現在の観光マップ。右端にキリン園がある)
先日、キリン園公園を訪れた。公園は山手の丘にはさまれた谷あいにある。いかにも水が湧き出しそうな地形だ。「天沼」の湧き水をくみ上げた井戸は、隣の北方小学校の敷地内にあるので見学はできない。公園内には、遊んでいる子どもたちを見守るように高さ6メートルの「麒麟麦酒開源記念碑」が建っている。
石碑のわきにある由緒書きの掲示板を撮影して公園をあとにした。そこから、山手本通りへ上って、醸造所があった46番(写真左)と68番(写真下右)を撮影した。山手本通りは尾根道である。水をいかに調達したのか疑問がわいた。下の天沼まで汲みに行ったのだろうか。井戸を掘ったのだろうか。どちらの醸造所も長続きしなかったのは水の便が良くなかったからではないか。撮影しながらビールにこだわった男たちの気持ちをくみ取ろうと試みた。
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