ヘレンベルグのサウンド ドイツNo.68
人間は、生活のための情報を70~80パーセント、視覚(目)から得ていると言われる。一方、人間の脳が発達したのは視覚が鋭敏になったからだという。それ以前に、類人猿が直立二足歩行になったのは視野の確保のためであった。少しでもハイアングルのほうが視野が広がり、草原で餌(我々の祖先が類人猿だったとき)を探したり、外敵から身を守るために有利だった。直立二足歩行により、脳への重力の負担が軽減し、ますます脳は進化したという。視覚は、人類の要である。
だからといって、視覚芸術はもっとも感動が大きいかというと疑問だ。日常生活と芸術は違うのだ。写真や絵画と音楽ではどちらが感動できるか、この答えは簡単には出せない。写真家である私の実情をあえて言えば、写真よりは音楽のほうが感動が大きい。しかし、もっとも感動するのは、“嗅覚芸術”や“味覚芸術”かもしれない。さて、旅の思い出はどうだろうか。写真は大きな役割を果たすが、それ以上に印象に残るのはサウンドである。旅行中のサウンドを聴くと、町の情景や体験がまざまざとよみがえる。写真とは別の追体験ができる。これは、サウンドが思い出として新鮮だからかもしれない。(写真左は、シュティフツ教会の敷地内に置かれた鐘)
今回のドイツ取材には、小型のデジタルレコーダー(オリンパス ヴォイストレックV-30)を持参した。おもな目当ては、ヘレンベルグの鐘のコンサートである。シュティフツ教会(写真上右)では、毎月第1土曜日の夕方、堂内に備えた24台の鐘を使って、コンサートを開催する。実際には、コンサーというよりは聴き比べと言ったほうが正しいと思う。鐘には大きさや形、音色など、いろいろあるのはわかるが、鳴らし方にもいろいろある。
コンサートの参加者は一度、聖堂内に集まり予備知識を聞く。それから塔に上り、解説と鐘の音色をかわるがわる聴く(写真右上)。当然、ドイツ語の解説なので、ほとんど理解できない。鐘の音だけ録音しながら聴いた。音色や鳴らし方に表情があり、教会の鐘の音がさらに意味深いものになった。今までなんとなく聴いてきたことが悔やまれる。最後に、すべての鐘を鳴らしたときは、鼓膜が破れそうだった。周囲の聴衆も、手で耳を塞いでいた。もちろん、レコーダーも適正録音レベルを超えてしまい、ヘッドフォーンに割れた音色が聴こえる。そこで、教会の外で続きを録音した(写真左)。やはり、教会の鐘は町の中で聴くべきものだとわかった。
翌日は、日曜ミサを録音した。福音主義教会の敬虔なミサに触れ、考えさせられた。ドイツ人などキリスト教圏の人々は、毎週、牧師や神父の説教・講話を聞く。 これには、信仰だけでなく人間の基本的な生き方が教訓として語られる。イスラム教も同じだろう。我々日本人はどうだろう。僧侶の講話を聞くのは法事のときぐらいだ。毎週、人間の生き方やモラルについて考えることと、たまに考えるのとでは、大きな違いがあると思う。日本に日曜ミサのような制度や機会があれば、社会の不正も少しは減るのではないか。なお、聖堂の2階には、ミサの間、子どもを飽きさせないスペースが作られていた(写真下)。
ミサが終了してから聖堂の前で人々が親交を深めるのは、横浜の山手カトリック教会と同じだった(写真上)。サウンドを録音することで、撮影とは違った視点で取材ができるような気がした。
ヘレンベルグについては『ペットボトル回収システム ドイツNo.66』参照
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