テーマをもつ喜びⅡ 横浜No.7
横浜No.5で、横浜の文明開化と山手の生活に惹かれたことを書いた。ここでは、横浜に惹かれたもう一つの理由について触れよう。
第2次世界大戦で負けた日本は、GHQ(連合国総司令部)に占領され、全国に基地や接収地ができた。昭和27年(1952年)当時、横浜市には 全国の接収地面積の62パーセントが集中し、市域の3.9パーセントに及んだ。現在、横浜観光の中心地である中区では74パーセント、また横浜の中枢である港湾施設の90パーセントが接収された (「港町 横浜の都市形成史」 横浜市企画調政局編)。私が撮影を始めた1983年ごろ、エキゾチックな雰囲気を感じたのは、この影響もあった。
万国橋を渡り新港埠頭(現在のMM21、赤レンガ倉庫周辺)へ足を踏み入れると、ほとんどアメリカと言っていいほどの雰囲気が漂っていた。もちろん、以前は全域が米軍の占領地だった。1985年ごろには、金網で囲われた一角があり、合衆国の管轄域であるという掲示が張られていた(写真下左)。中ではバスケットボールに興ずるアメリカ人がいた。埠頭内を走る線路と6号上屋(倉庫)を撮影すると、アメリカそのもののように見えた(写真上右)。新港埠頭にはアメリカがあったのである。
市内に他国の基地があることは好ましいことではないと思うが、そこから得られることもたくさんあった。横浜でジャズがさかんなのは基地の影響だ。市内には、今でもライブハウスが目だつ。毎年、8月の最後の日曜日に開催される本牧ジャズ祭はその名残だろう。
バスケットボールとバスケットシューズは、元はアメリカのファッションだった。スパーマーケットで週末に大量に買いものをするライフスタイルはアメリカ
の基地から伝わったものだと聞く。「横浜どんたく」へ基地から参加したアメリカ人のマーチングバンドは、実にかっこよかった。「戦後の日本の“遊び”は横浜から発信された」と言う“浜っ子”もいるぐらいだ。横浜が第2の文明開化を体験したと言われるゆえんである。以上は、私が横浜の撮影に夢中になる要素の一つだった。一方、終戦直後の横浜が直面した苦難は想像に難くない。これを乗り切った人々の努力を忘れてはならない。
【写真解説】 写真は上から順に 〔1〕 新港埠頭の6号上屋と引込み線。右端のプラットフォームは北米航路を利用する人々が新橋からやってきたところだ。氷川丸の処女航海はこの岸壁から出港したという。〔2〕 コンテナーに当たる夕日はエキゾチックだった。〔3〕 埠頭内を走る線路。手前は東京(旧新橋)へ、奥は岸壁へつながっていた。〔4左〕 新港内にあった米軍施設。〔4右〕 中華街にあったアメリカンスタイルのカフェバー。カウンターバー・スタイルで、コーヒーやビールがリーズナブルな価格で飲めた。〔5左〕 「横浜どんたく」でパレードに参加した女性。〔5右〕 本牧ジャズ祭。残暑の中でプレーヤーも観客も燃える。
2回にわたって写真『横浜がみえる時間』のテーマについて考察した。テーマが絞られ、撮影の目標が決まれば、撮影は楽しくなり、充実し、やりがいを感じるものだ。
参照:横浜No.5(http://silent-forest.cocolog-nifty.com/ht/2006/04/no5_5811.html)
| 固定リンク | 0
この記事へのコメントは終了しました。
コメント